【事故】F4戦闘機百里基地で炎上 | 周南市 東郭の世界

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18日午前11時45分頃、茨城県小美玉市の航空自衛隊百里基地で、誘導路移動中だった

F4戦闘機の機体左側から出火した。乗員2人はエンジンを停止して機外に脱出して無事。

自衛隊の消防車が消火作業にあたり、火は約20分後に消し止めた。

出火した戦闘機は同基地の第7航空団に所属する、2人乗りのF4EJ改(全長19.2m、

全幅11.7m、巡航速度 940 km/h、最大速度: 2,370 km/h)。

同基地渉外室などによると、太平洋上での飛行訓練に向かうために滑走路へと移動していた

際、操縦士は機体が左に傾く異常を感じたという。消火後の調べで、左翼の下にある主脚に

損傷が確認されており、主脚が損傷し、翼にある燃料タンクが地面と接触して出火したと

みられる。



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                                     《百里基地で炎上するF4戦闘機》


     発火直後にパイロットは、操縦席から主翼上に移動し、飛び降りて脱出した。





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                                    《F4戦闘機》


  左の主脚が折れたという。


1966年(昭和41年)に第2次F-XによりF-86Fの後継機種としてF-4Eを日本向けに改修した

F-4EJを選定した。導入時の際の2機はマクドネル社セントルイス工場製の輸入、続く8機分

は部品で輸入し三菱重工業でのノックダウン生産、それ以降を同社によるライセンス生産と

決定した。加えて、1974年(昭和49年)よりRF-4Eを14機輸入しており、1981年(昭和56

年)の生産終了までに日本が調達したF-4の総数は154機となる。また、F-4のライセンス生

産が許可されたのは日本が唯一となる。

F-15Jが導入されるまで主力戦闘機として防空任務を担当した。出自が艦上機であるために

上機としては大きな構造重量(着艦の衝撃に耐えるため、足周りが頑丈であった)への批

判や、採用後も1976年(昭和51年)のベレンコ中尉亡命事件で低空目標の探知能力(ルック

ダウン能力)不足が明らかになるなど、課題も抱えた。

F-104J/DJが実戦部隊から退いた1986年(昭和61年)からは数の上でもF-15Jが主力戦闘機

となるが、1989年(平成元年)より延命・能力向上目的の改修を受けた90機が「F-4EJ改」

となり防空任務に就いた。また、RF-4E偵察機2機の事故減に対して、1990年(平成2年)

より15機の近代化改修対象外の初期型F-4EJを偵察型「RF-4EJ」に改修した。

三沢基地の第3航空団第8飛行隊はF-2の配備遅延のために1997年(平成9年)から繋ぎとし

てF-1の代わりにF-4EJ改を支援戦闘機として運用していた。

現在、F-4はF-15Jへの更新や部隊の改編、老朽化により徐々にその数を減らしている。

2016年現在、日本でF-4を戦闘機部隊で運用しているのは茨城県百里基地の第7航空団第301

飛行隊・第302飛行隊の二個飛行隊となっている。

また、RF-4E/EJ改を運用している百里基地偵察航空隊第501飛行隊を偵察型に改修したF-15

Jで更新する計画がある。《出典:Wikipedia》

 

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                                       《F-4EJ改戦闘機》


今回のF-4EJ改の炎上事故は、人身事故にならなくてよかったのですが、主脚が折れたのが

 原因のようで、考えられない事故です。点検では異状がなかったそうですが、金属疲労など

 の要因であれば、目視や異音での判定は難しい筈です。同機は1990年に改修されたそうです

 が、主脚の折損が原因とすれば、1974年導入時から使用したことになり、40年以上経過

 しています。その間、何千回離着陸を繰り返していたか知れませんが、戦闘機ともなれば

 いかにも古く考えられない使用状況です。国民を守る筈の空自もこれでは、結果的に国民

 を犠牲にしてしまいます。今回、パイロットがその危険に一番先に晒された訳ですが、

 現在の自衛隊員は、いかに使命とはいえ可哀そうです。関係省庁には、自衛隊員を守るため

 安全な装備を提供して欲しいものです。