龍蔵寺の宝物殿は、これまで紹介する機会がなかったのですが、内部の写真を収めることが
出来ましたので、ご覧いただきたいと存じます。
宝物殿は、観音堂の左側、牡丹園の奥にある只の庫です。
収納品の量・価値からすると手狭ですが、きちんと整理されています。
《2017.9.22 周南市 東郭》

宝物殿の表示板
木造大日如来坐像・四天王図鎗金扉・木造千寿観音菩薩坐像・木造毘沙門天立像・木造不動
明王立像
【寺宝・文化財】
● 胎蔵界大日如来坐像(国・重要文化財)
● 十一面千手観音菩薩(県・文化財)
● 毘沙門天立像(市・文化財)
● 不動明王立像(市・文化財)
● ちょうだい地蔵石像
● 聖徳太子立像
● 伝画聖雪舟禅師の作、伝説の絵馬
● 雲谷等顔作、三十三頭の絵馬

宝物殿中央に安置されている千手観音菩薩像の厨子

十一面千手観音菩薩(県・文化財)
山口市龍蔵寺に安置されている秘仏である。ヒノキ材の寄木造りである。像高は77.9cm。
宝髪には群青(ぐんじょう)、眉は墨、眼は胡粉地に墨で瞳を入れている。頭上に十の菩薩
面と二つの仏面がある。千手観音の多くは千手を42本であらわしたものが多い。この像も42
本である。像が素木(しらき)であること、面相や衣紋の彫りが深くなっていることなどか
ら、13世紀(鎌倉時代)の制作と見るべきである。なお、昭和60年度保存修理の折、頭頂よ
り水晶製五輪塔型の仏舎利器(高さ3.2㎝)が発見された。《出典:山口県(文化財)HP》

天平13年(741年)、行基がこの地で千手観音像を彫り、七堂伽藍を建てて「龍蔵寺」と
名付けたそうです。その千手観音像と県が鑑定した13世紀製作には、いずれにしても
深い関係があると思われます。龍蔵寺では秘仏として扱われ、この厨子も25年に一回
しか開帳されません。

(中央)国指定重要文化財「胎蔵界大日如来坐像」平安時代(藤原中期)

「胎蔵界大日如来坐像」
山口市竜蔵寺に蔵されている。ヒノキ材の一木造りで、像高は98.8cm。宝冠をいただき、
両手をひざ上で重ねて定印を結ぶ胎蔵界大日如来である。腕から胸にかけての体相は、肉付
がよく量感があって平安期の古風が感じられる。しっかりと張ったひざに均整のとれた体部
が据えられ、安定した姿を示している。やや伏目の面相の表現も洗練されていて、美しい仏
像である。肉付きに豊かさを残すが、全体に彫りが浅く、ひざの厚みも少いところから平安
時代後期12世紀頃の作と考えられる。後背(こうはい)・台座は後補であるが、鎌倉時代の
ものと見てよいであろう。《出典:山口県(文化財)HP》

木造毘沙門天立像
この毘沙門天立像は、檜材の寄木造りで像高は 106cm である。内刳を施している。
頭髪はまばら彫りで天冠台をつけ、瞋目(しんもく)、閉口面はや や斜左を向き、左手は屈
して掌を上に宝塔を捧げ、右手は屈して鉾を執る形をしている。甲をつけ腰をやや左にひね
り、左足で邪鬼の腰を踏み、右足は膝を曲げて邪鬼の頭を踏んでいる。背面腰下の材の内面
に次の造像銘がある。「并比丘尼浄念僧明川并津守氏 女大仏師見阿弥陀仏又藤原家永并家永
二親比丘尼同父佐渡□意惣者法界衆生平等利益 □ 仍造立供養如件 僧明川花押 藤原家永花押
大仏師見阿弥陀仏花押 津守氏女花押 津守盛 顆花押」。 これにより不動明王と同時に造立し
たこと、2つの像の作者は、仏師の見阿弥陀仏で あることがわかる。
《出典:山口市(文化財)HP》


四天王図鎗金扉(してんのうずそうきんとびら)
扉は縦124cm、横98cm、両開きである。片側に上下に各一枚の板が入っていて、この板に
絵がある。ただし向って右側の扉下方の板が欠失しているので、絵のある板は3枚である。板
の寸法は縦50cm、横40cm位で、厚さ8mm、下地漆を施した上に表を黒漆、裏を朱漆で仕
上げている。この板に鎗金法によって表は天部形立像、裏には花瓶、蓮華、花台が描かれて
いる。鎗金とは漆仕上げをした表面に図様を浅く線刻し、そのくぼみに漆を摺りこみ、刻線
上に綿で金箔を押しこむ技法をいい、日本では沈金といっている。天部は持国天、増長天、
広目天で多聞天像が欠失している。裏側朱漆には蓮華、花瓶などが描出されているが、下端
部に近く、「平江管勝造」という黒漆押印があり、製作地が中国の蘇州であるとわかる。
平江は蘇州の古称である。平江は元時代を中心に、鎗金漆工芸の盛んな土地で、今日遺る数
少ない鎗金漆工品の例と考えあわせ、本絵扉の製作年代は14世紀初め頃と考えられる。鎗金
漆工品の遺例の少ないなかで、このような大きな作品は他に例を見ず、たいへん貴重なもの
である。《出典:山口県(文化財)HP》

厨子の右の3体の像

木造大聖不動明王立像
この不動明王立像は、 檜 材の寄木造りで像高は 103cm である。
内刳りを施している。焔髪 、左前に弁 髪をたらし、右瞋目(しんもく) 、左半眼の天地眼
で、閉口、右手を屈し手首を腰部につけて剣を執っている。左手は屈して 手首を側面前にあ
げ、羂索( けんさく) を執る形をしている。条 帛( じょうはく) を左肩に、右脇にかけ
裳をつけている。腰 をわずかに左にひねり、岩座に立っている。彩色はほとんど剥落してい
る。躰内に銘文があり、磨滅していて読み難いが判読すれば次のようである。「為此不動尊
造立供養志者大圓上人善□上 人悲母□□□津守□□二親□□門殊□□権大□時駿河守殿以下
討死自害人々乃至法界衆生□□後世仍造立供養如件 □□四年六月十二日僧明心花押清□□□
花押藤原家永□沙弥成 □花押津守盛□花押大佛師見阿弥陀佛花押僧釋智□」。 年号の部分が
はっきりしないのは残念であるが、鎌倉時代の作である。毘沙門天と一対として造られたも
のと思われる。《出典:山口市(文化財)HP》

聖徳太子孝養像(16歳像)鎌倉時代


金剛界曼荼羅図(室町時代)

胎蔵界曼荼羅図(室町時代)

星供曼荼羅図(作者不詳/室町時代)
大内氏の始祖 韓国淋聖太子の頃、下松市に隕石が落下し妙見信仰が生まれた。
中尊に北極星(妙見菩薩)に当たる一字金倫仏頂如来、その周辺に七星、九曜、十二宮、
二十八宿の星々を表す仏尊が描かれている。

十二天像①

十二天像①′

十二天像②

十二天像②′