毛利元就の三矢の教えの元は、周南市勝栄寺で書かれた直筆書状だった。 | 周南市 東郭の世界

周南市 東郭の世界

Yahoo blog経歴10年でアメブロへ移行しました。
一応、貴重な記事・画像は移行成功しているようで、引き続き東郭の世界を楽しんで下さい。令和元年から新しいアメブロで頑張ります。 “ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ”

中国の太守 毛利元就の故郷広島県安芸高田市に行って来ました。

元就は、戦国時代小さな安芸国人領主で中国地方10ヶ国を治めるようになった戦国最高の知将

と評される人です。元就の孫の毛利輝元の時、関ケ原の戦いで西軍総大将となり敗れた後は、

防長2州に封じられ長州藩主になりました。毛利家は江戸時代萩城で現在の山口県を統治して

来ましたが、奇しくも265年後の倒幕で明治維新政府を打ち立てます。

                            《2017.6.4 周南市 東郭》

イメージ 1


      安芸郡山城は、広島市駅から約43kmで車で国道54号線が便利です。


  




イメージ 2


毛利家定紋


イメージ 3

定紋の「一文字に三つ星」は別名、長門三つ星ともいうが、同図案の家紋は長門毛利氏

に限らず長井氏などの大江氏の氏族によって使用されている。分家筋の徳山藩、府中藩

の毛利家も同様の構図で一文字の図案を少し変えた一文字に三つ星を使用している。

「一文字に三つ星」を分解すると、一文字は「かたきなし」(無敵)の意味を持ち、三

つ星は軍神として信仰のあった将軍星(オリオンのベルト)を表している。全体的な形

は、律令制における最高位を意味する「一品」(いっぽん)という文字を表している。






イメージ 4


城址がある






イメージ 5


毛利元就




イメージ 6

時代
        戦国時代
生誕        明応6年3月14日(1497年4月16日)
死没        元亀2年6月14日(1571年7月6日)
改名        松寿丸(幼名)、元就
     別名         通称:少輔次郎、右馬頭
      渾名:乞食若殿
神号        仰徳大明神
戒名        洞春寺殿日頼洞春大居士

墓所        大通院跡(広島県安芸高田市吉田町)
      菩提寺:洞春寺(山口県山口市水の上町)

官位        従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守、贈従三位、贈正一位
幕府        室町幕府 相伴衆
主君        毛利興元 →毛利幸松丸 →尼子経久 → 大内義隆
氏族        大江氏、毛利氏
父母        父:毛利弘元、母:福原広俊娘
兄弟        興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏、宮姫(武田氏室)、女(渋川               義正室)、相合大方(井上元光室)、松姫(吉川元経室)、竹姫
               妻            正室:妙玖(吉川国経娘)
               側室:乃美大方、三吉氏(三吉隆亮妹)、中の丸
             子             隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶等、
                                   《Wikipedia》









イメージ 7


安芸高田市歴史民俗博物館






イメージ 8







イメージ 9


毛利元就

安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまで

に勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。用

意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家とし

て名高い。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物

である。《出典:Wikipedia》




イメージ 10


毛利元就

天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山

城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で

籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そし

て遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中

心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信

実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、

安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

                              《出典:Wikipedia




イメージ 11


売店







イメージ 12


古墳もある







イメージ 13


2F展示室






イメージ 14


1Fのサロン


三本の矢

死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという

逸話がある。元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折

るよう命じた。息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い

矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたというものである。この

逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際には元就よりも隆元が早世し

ているなど史実とは食い違う点も多く、弘治3年(1557年)に元就が書いた直筆書状『三子

教訓状』に由来する創作とされる。《出典:Wikipedia》





イメージ 15

元就の三子教訓状

1557年(弘治3年)11月25日に周防富田(現・山口県周南市)の勝栄寺で書いた元就の自筆

書状。60歳を越えていた元就が、3人の息子たちに(他の子どもたちを含めて)一致協力して

毛利宗家を末永く盛り立てていくように後述の14条に渡って諭している。《Wikipedia》