2017周南桜紀行-10 杉ケ峠隧道を一の井手 興元寺まで | 周南市 東郭の世界

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周南桜紀行も10回目で、最終回であります。

主に周南地方の桜の写真を投稿して参りましたが、それほど見事な桜が咲いて、

十分に堪能できました。

今回は、315号線を帰途につく、須々万本郷から杉ケ峠隧道→栄谷隧道を通って

一ノ井手の興元寺までのルートです。

                      《2017.4.24 周南市 東郭》


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315号線を和奈古から一の坂の方を通るとき、杉ケ峠隧道の上の山に桜が沢山咲いて

いました。今年は、上の方にもピンクの桜が咲いて、一段と規模が大きくなっていま

した。




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今は、もう昔の道を通った人は少なくなったでしょうが、今のトンネルが出来る前は

この桜が咲いている道を通っていました。




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        杉ケ峠を出た所で、徳山湾を眺望しました。

        この辺りの標高は約400mです。




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        道路沿いに山桜が伸びて咲いていました。






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山桜






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    栄谷隧道を過ぎた辺りで徳山湾の大浦貯槽所タンクが見えます。






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                ヤマザクラ






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栄谷大橋を過ぎた辺りから、山陽自動車道の高架下くらいまで、菜の花が植えて

ありました。





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               沿道の菜の花ロード






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        採石場の山が年月と共に低くなってきました。

        この下は山陽道のトンネルですね。







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興元寺の桜が綺麗です。この大イチョウは市内最大と言われています。

興元寺は、杉元相(すぎもとすけ)が建立し菩提寺としました。

【杉 元相とは?】

杉 元相(すぎもとすけ)

天文20年(1551年)の陶隆房(陶晴賢)による大内義隆への謀反(大寧寺の変)では、陶隆房の命によって大内義長を迎えに豊後に赴いた。弘治元年(1555年)の厳島の戦いには従軍せず、弘治2年(1556年)の毛利元就による防長経略の最中、毛利氏に降伏。毛利隆元の偏諱を賜って「元相」と名乗る。弘治3年(1557年)には佐波郡大前と植松の旧領安堵に加えて都濃郡の野上(後の徳山)と遠石を与えられ、金剛山山麓(現在の徳山動物園前)に館を構えた。天正2年(1574年)7月に野上の浄福寺金伯に依頼して一の井手に興元寺を建立し菩提寺とし、天正13年1月26日(1585年2月25日)に病死。享年64。元相・元宣父子の墓所は興元寺にあり、周南市指定文化財になっている。《Wikipedia》




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杉 元宣(すぎ もとのぶ)・・・杉 元相の子

時代       戦国時代 - 安土桃山時代
生誕       不詳
死没       天正1736日(1589420日)
改名       杉長相杉元宣
別名       小次郎(通称)
墓所       興元寺(山口県周南市)
主君       大内義長毛利元就毛利輝元
氏族       杉氏
父母       父:杉元相
妻        清泰院(児玉元良の娘)
子        養子:杉元常

生涯
元々は大内氏の家臣であり、初名の「長相」は大内義長から偏諱を受けて名乗ったものと考えられる。のち1556年(弘治2年)の毛利元就による防長経略では山代衆の残党と共に居城の成君寺山城に籠り抵抗したが、やがて毛利氏に降伏。元就の長男・毛利隆元より偏諱を賜り「元宣」と改名する。以後は毛利氏家臣として、父と共に忠勤を励み、父が天正13年(1585年)に病死すると家督相続し、杉氏の当主となる。
しかし、五奉行の一人である児玉元良の12歳の娘と結婚したことで元宣の人生が暗転する。「古老物語」によると、実は妻は幼少の頃から主君である毛利輝元(隆元の子)が目をつけており、元良の娘目当てで元良宅を度々訪問する始末で、婚礼自体が、そうした輝元の態度に快く思わない元良の意向によるものであった。
元宣の妻になっても元良の娘を諦めきれない輝元は家臣の椙山土佐・清兵衛親子、佐世元嘉らに命じて元宣の妻を奪ったのである。
主君とはいえ輝元の悪行に激怒した元宣は天正17年(1589年)、大坂の豊臣秀吉に輝元の悪行を直訴すべく出立した。しかし事の重大さに気付いた小早川隆景は御家の大事のため、元宣を不憫に思いながらも野上庄沖にある大島の船隠で殺害。これにより隆相系杉氏は断絶した。その後、毛利家の船が徳山湾の沖を通ると海が荒れるようになり、広島域中では奇怪な事件が相次いだという。
元宣の供養塔は、杉元相が建立した菩提寺である興元寺内、元相の墓の隣にあり、周南市の文化財に指定されている。また、興元寺には恨みを含んだ武者の幽霊が白馬に乗って辺りを走り回る、という伝説も伝わっており、興元寺では山門を固く閉ざして「不開の門」とし、別に山門を建て、仏前に回向することを続けた。毛利家では、たびたび興元寺に寺領を寄進して、杉氏の供養を長く続けたという。
なお、元宣の元妻は二の丸殿と呼ばれ、萩藩主・毛利秀就と徳山藩主・毛利就隆らを出産した。


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杉元宣は殺害されたましたが、この興元寺の周りを武者姿でよなよな白馬に跨り、

今の杉神社のあるところから、一ノ井手を駆け回ります。小学生になったころ、

この話を聞き、昔の吊り橋を渡って栄谷へ上るとき、狭い道の鬱蒼とした神社前

を通るとき、この幽霊の話を思い出して怖かったです。この元宣の話は、一ノ井手の

人はみんな知っていて、昭和になっても語り継がれていたのです。

一方、毛利輝元の側室になった児玉元良の娘清泰院(二の丸殿)は、長州藩初代藩主

毛利秀就と徳山藩藩主毛利就隆を出産しました。

2016.11.3 興元寺に萩藩初代藩主毛利秀就と徳山藩初代藩主毛利就隆の生母で

ある二の丸殿の周姫(かねひめ)の石像が建立されました。住職や地元の方々の

周姫が杉家の菩提寺に帰ったという心優しい気持ちからです。