【風景写真】 雲海の島根県益田市 | 周南市 東郭の世界

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島根県益田市に雲海が現れました。前の晩降った雨は止んで高津川や
 
石見山地から朝霧が立ち上って雲海となっています。
 
                  《2016.12.5 周南市 東郭》
 
 
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島根県の西部に位置し日本海に面する。現在の市中心は高津川下流に広がる益田平野(吉田平野)の三角州に発展しており、明治時代からの中心部は益田駅東方の右田酒造付近(昔、瓦版が立っていた場所)(通称:旧益田)にある。

市域の南部は中国山地の西部に当たり、1000m級の山々が連なる。特に200411月に合併した美都地区、匹見地区についてはエリアの9割近くが山林となっており、匹見地区は日本最西端の豪雪地帯でもある。

なお、益田市の面積は島根県内ではもっとも広い。《Wikipedia》


 
 
 
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【益田氏とは?】

 
”石見(いわみ)の豪族御神本(みかもと)氏の一族と伝える。室町時代に周防
(すおう)の大内氏に属し,大内氏滅亡後は毛利元就に帰属。関ヶ原の戦後も毛利氏に従い,削封による毛利氏の財政危機を救済,萩藩(長州藩)の基礎づくりに成功し,永代国家老として1万2000石を領した。” 益田氏が現在
の益田市の名前の由来ですが、明治維新の先駆けとなった益田家33代当主の
益田親施が居ますね。阿武町須佐の領主でそこの笠松神社に祀られています。長州藩は京都勢力の奪回を図り、京都に出兵し禁門の変で惨敗した時の長州藩の総大将が益田親施でした。破れた長州藩は七卿を伴い長州へ引き揚げます。怒った江戸幕府は、長州征討を画策し謝罪案の一つとして三家老の
切腹を要求します。三家老の一人がこの益田親施でした。藩論は保守派の
台頭により幕府恭順を示し藩を存続する方針を打ち出して三家老の切腹を
受け入れます。益田親施は、支藩の徳山藩へお預けになり元治元年11月11日
惣持院で切腹いたします。徳山(周南市)在住の私には特にこの益田親施に
対する気持ちが強く、言葉を変えれば、その時の長州藩を救った人物であり
ます。このあと、四境戦争に突入し、石州口へは大村益次郎が進攻して、
幕府軍の浜田藩を撃退させます。大村益次郎の長州軍は、津和野から益田へ
上り、浜田へ兵を進めるのですが、この地方の民衆は、幕府赴任の藩主の
圧政に苦しみ、旧領主の益田家一統を懐かしむ気持ちが強くて残っており、
炊き出しをして長州軍を迎えたと伝えられています。
 
 
 
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益田市は、人口47,000人余り、面積は733.19km2です。
 
因みに、周南市の面積は、656.1km2、東京23区面積が619km2で
 
す。人口は少なくて面積は広いというのは、自然が豊かだということに
 
繋がります。雲海に包まれる益田市はスサノオもやって来た歴史と
 
自然の町であります。
 
 
 
 
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