
昨日に続いて第2回目になります。
富山湾神通川の河口に(旧)岩瀬地区廻船問屋の町並が保存してあることを知り、見て回る
ことにしました。前回は、主に富山湾展望台を見学しましたが、そこから大町通りという
廻船問屋街を歩くことにしました。
《2016.8.24 周南市 東郭》

岩瀬大町通りの石標もかなり古い

【岩瀬の建物建造群とは?】
岩瀬の歴史は、古くは905年に醍醐天皇が編纂を命じ、927年に完成奏上された延喜式にも
登場する。室町時代には「廻船式目」(日本最古の海法)によって三津七湊の一つに数えられ
る北国廻船の重要な湊でもあった。「廻船式目」は中世のみならず近世に至るまで、法とし
ての生命を持ち続け、岩瀬は江戸時代には北前船が寄港する交易地として繁栄した。
現在の町並は明治6年に、フェーン現象等による大火で、約1000戸あった家屋の内650戸
が焼失した。当時は、五大家を中心に回船問屋が最盛期だったため、江戸時代の伝統的建築
は失われたが、岩瀬独自の「東岩瀬回船問屋型」家屋として再建された。明治後期には、岩
瀬独自の「防火土蔵造り型」家屋も考案され、当時の優れた建築技術で建てられた伝統的建
造物がずらっと並んだ。《内閣府社会経済研究所》

大町公園の北前船(銅製)

【廻船問屋とは?】
積荷の売買に関連して船主のために積荷を集めたり、船主と契約を結んで積荷を運送したり
する運送取次・取扱の役目を果たした。更に他の地域からの廻船(客船)と契約を結んで
これを受け入れて積荷の揚げ降ろしなどを行って口銭を得る場合もあった。
船問屋は積荷の引取・売買だけではなく、積荷の保管・管理、売買相手の斡旋・仲介、相場
情報の収集・提供、船舶に関わる諸税の徴収、船具や各種消耗品の販売などその扱う分野は
幅広いものがあった。また、船問屋は必ずしも船を所有している訳ではなく、必要に応じて
付船(船主から船を傭船・借船する)を行って廻船を仕建てることを専門とする者もおり、
こうした問屋は特に付船問屋・仕建問屋と称した。商品を扱う荷主、輸送を行う船主、両者
を取り次ぐ船問屋の3者が分化するようになったのは全国的な商品流通網が発展した江戸前期
以後のことである。《Wikipedia》


大塚屋の名物 三角どらやき
店内でも食べられるが、敢えて前の公園のベンチで、街並を眺めながら食す。

大町公園は、トイレもあります。

大町公園

問屋街建物の特徴の一つにスムシコ(簀虫籠)という竹簾があります。
殆んどの旧家はこの出格子様式で、通る人からは家の中が見えませんが、家の中から
通行人はよく見えるのです。

岩瀬廻船問屋街並


北前船廻船問屋 森家

国の重要文化財

玄関
入って右に受付があり、見学料を払うと、中を案内して戴けます。

玄関から奥まで土間が続いており、最初の右座敷の間です。

畳に炉が切ってあり、自在かぎに鉄瓶が架けてある。

北前船(模型)
北前船は千石船とも云いました。もっとも標準的な大きさだそうですが、米が千石積める
ことから換算すると、150㌧となります。全長約30m、全幅7~8m、排水量200㌧と
するのが、目安になっています。岩瀬では、バイ船と云っていたそうですが、これは、
航海するごとに、利益が倍になることを意味しています。また、一航海の利益は一千両と
いわれますが、今の貨幣価値で約一億円とするのが、多いです。

海上安全、海の神様を祀ってあります。