
広島城は、毛利輝元が天正17年(1589年)に築城を開始し、2年後の天正19年に入城した
そうです。毛利輝元は、毛利元就の孫ですが、毛利氏は鎌倉時代安芸の吉田の地頭職で
したが、吉田郡山城を中心に中国地方の覇者にまで上り詰めます。輝元は豊臣秀吉が政権を
取ると、臣従することとし、御大老の一人になります。ところが慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いで西軍の総大将として戦いましたが、東軍(徳川家康)に敗れ、周防・長門
両国(現山口県)に転封されました。替わって広島城に入ったのが、福島正則です。
福島正則は、秀吉恩顧の大名でしたが家康が亡くなると幕府は、理不尽と思える難癖をつけ
て武家諸法度違反の名目で越後の方へ移封し、替わりに浅野長晟(ながあきら)が1619年
(元和5年)8月8日、広島城に入って、以後、明治まで浅野家が広島城を居城としました。
このように広島城の生い立ちは、毛利輝元が大田川から瀬戸内海の水運の便と海軍力を
手に入れる為、デルタ地帯を干拓して造った平城でしたが、その後の福島正則や浅野家の
の努力で富裕な地方になり現在に至っています。
《2016.6.25 周南市 東郭》

広島城
別名 鯉城、在間城、当麻城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合連結式望楼型5重5階(1599年・非現存)
外観復元(SRC造・1958年再)
築城主 毛利輝元
築城年 1589年
主な改修者 福島正則
主な城主 毛利氏、福島氏、浅野氏
廃城年 1874年
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 大天守・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門

広島城の歴史は、幕末になって緊迫します。毛利家が周防長門に減封されて以後、元の
城主毛利家と幕府の出先機関的役割を背負わされた浅野家の役割です。幕府は、広島城を
最前線基地と位置付け、長州藩を征討することにします。元治元年の第一次長州征討でも
幕府の本営が置かれました。禁門の変で長州藩の三家老の切腹命令や首実験も広島(城?)
で行われました。ところが、広島城の城主である浅野 長訓(ながみち)は、第二次長州
征伐に反対し、先鋒を断っています。広島藩は、長州藩の窮状に同情的であったこともあり
ますが、幕藩体制を見限っており藩士領民は倒幕運動に参加します。
明治27年の日清戦争の時には、本丸の第五師団指令部に大本営が設置されました。
太平洋戦争の時は、昭和20年5月、本丸に中国軍管区・第59軍司令部が置かれました。
軍都 広島とされました由縁です。

【広島城の解説】
日本100名城の一つ。最も広かった時代の曲輪のうち内堀に囲まれた本丸と二の丸と三の丸の一部が現存し、広さ約12万m2。大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なものである。名古屋城、岡山城と共に日本三大平城とも言われる。
江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の太守浅野家12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』で知るところでは、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。1598年に毛利輝元によって創建された大天守は、1945年に倒壊するまで現存天守の中では岡山城天守に次ぐ古式を伝えるもので、下見板張りや最上階に高欄を持つ外観の仕様は国宝保存法下の国宝指定(1931年)の理由の一つとなった。近代は軍都広島の中心施設であった。日清戦争時に、本丸に大本営が置かれたという稀有な歴史を持っている。アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下の際には破壊目標地点となり天守は倒壊したが、近年の研究で原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく建物の自重により自壊したことが判明している。現在の天守は外観復元天守になる。《Wikopedia》



