越中富山城 | 周南市 東郭の世界

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越中富山城を見学しました。
 
桜橋のホテルからお城へ松川沿いを歩くと、よく整備された遊歩道と桜の並木が城下町の
 
風情を感じさせます。富山城は富山駅からも徒歩15分くらいの場所にあり、昔も今も町の
 
中心地と言ってもいいでしょう。北国街道・飛騨街道と交通の要衝であったことや、天然の
 
要害の神通川の水濠を巡らした昔の面影は、現代においても情緒ある町と映ります。
 
 
                           《2016.6.5 周南市 東郭》
 
 
 
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JR富山駅と富山城の位置
 
 
 
 
 
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松川の遊覧船
 
 
 
 
 
 
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朝、遊覧船の準備をする船頭
 
 
 
 
 
 
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             本丸搦め手門の石垣と海鼠壁

 
 
 
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古城の春
 
 
 
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     うしろより初雪降れり夜の町
     大雪となりて今日よりお正月
     雪の夜や家をあふるる童声
     雪山に雪のふりゐる夕かな
     オリヲンの真下春立雪の宿

 
                              《前田普羅》
 
 
 
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入門
 
 
 
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佐藤記念美術館
 

富山市佐藤記念美術館は、富山県砺波市出身の実業家であり茶人でもあった、故佐藤助九郎
 
氏が中心となり、昭和369月に()佐藤美術館として開館しました。その後、同38年には
 
()富山美術館と改称しました。平成35年にかけて、開館30周年記念増築工事を行い、同
 
104月には()富山佐藤美術館と改称しています。館内には展示室のほかに、佐藤家より
 
「助庵」「柳汀庵」の2席の茶室とともに、総桧造りの書院座敷が移築されています。同14
 
4月に、建物と所蔵作品などの全てを富山市に寄贈し、現在は佐藤記念美術館として、郷土
 
博物館と2館一体運営を行っています。《富山市HP》

 
 
 
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富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中中央の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中
 
東部への進出を図る神保長職により築かれたとされる。神通川の流れを城の防御に利用した
 
ため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山城の辺りで東
 
に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれていた。
 
また、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の一つといわれている。
 
現在、城跡は「富山城址公園」となっている。
 
 
 
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富山城
 
別名      安住城、浮城
城郭構造    梯郭式平城

天守構造    不明
模擬天守/複合連結式望楼型34階(天守)22階(小天守)
1954 RC造)

築城主     神保長職、水越勝重?
築城年     天文12年(1543年)
主な改修者   佐々成政、前田利次
主な城主    主に前田氏、他に神保氏、佐々氏
廃城年     明治4年(1871年)
遺構      石垣、堀
指定文化財   国の登録有形文化財(富山市郷土博物館)
再建造物    模擬天守
 
 
 
 
 
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富山藩二代目藩主 前田正甫公像
 
 
 
 
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富山藩二代目藩主 前田正甫公像
 
 
 
 
 
 
 
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                    景雲橋
 
 
 
 
 
 
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                   殉職の碑
 
 
 
 
 
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明治天皇 御製
 
 
 
 
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戦災復興の像
 
 
 
 
 
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佐藤記念美術館
 
 
 
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安土桃山時代
 
富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行った。本能寺の変の後、豊臣秀吉と
 
離れた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏
 
し(富山の役)、富山城は破却された。この際に、秀吉は本陣を富山城西方4kmの白鳥城ま
 
で進めたものの富山城には入らず帰還したとするのが従来の定説であるが、成政が降伏した
 
直後の天正13年閏81日に富山城に入城していたとする説が新たに提起されている。
 
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城とし
 
たが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移
 
り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。
 
 
 
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江戸時代
 
寛永16年(1639年)、加賀藩第三代藩主前田利常は次男利次に10万石を与えて分家させ、
 
富山藩が成立した。翌寛永17年(1640年)、利次はそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮
 
城として借り越中に入った。
 
当初、居城として婦負郡百塚に新たに城を築くつもりであったが、藩の財政がそれを許さな
 
かったため、万治2年(1659年)に加賀藩との領地交換により富山城周辺の土地を自領とし
 
富山城を居城とした。
 
万治4年(1661年)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後
 
富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。
 
 
 
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見事な石垣
 
 
 
 
 
 
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大手門のところにある案内板
 
 
 
 
 
 
 
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