
絶句
高杉晋作
赫赫東藩八萬兵 赫赫(かくかく)たる東藩八萬兵
襲来屯在浪華城 襲来して浪華城に屯在(とんざい)す
我曹快死果何日 我曹の快死する果たして何の日ぞ
笑待四隣聞砲聲 笑うて待つ四隣に砲声を聞くを
笑待四隣聞砲聲 笑うて待つ四隣に砲声を聞くを
【語句解説】
赫赫(かくかく)→赤くかがやくさま。熱気を発するさま。
東藩(とうはん)→幕府軍
浪華城(なにわじょう)→大阪城
曹(そう)→友達・吾曹
【東郭解譯】
禁門の変で幕府は、長州藩に三家老切腹・四参謀斬首を突きつけ、処分しますが、それで幕府の威信が回復した訳でなく、世の中の流れは尊王攘夷論に
傾き、公武合体派はなんとか意志統一を図ろうと第二次長州征伐に打って
出ます。慶応元年夏には将軍家茂が諸藩を引き連れ大阪城に集まります。
しかし、朝廷からの勅許が出たのは一年後の慶応二年六月五日です。
朝廷や諸藩も最早幕府体制に疑問を持ち、大義のない戦と財政難から及び腰
だったのが、第二次長州征討の前の実情でありました。一方高杉晋作ら
長州藩正義派は、主導権を握っていた俗論派を大田絵堂の戦いで撃破し、
慶応元年二月頃には、藩論を倒幕へ統一します。そして慶応二年一月には
坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれます。公武合体派の雄である薩摩藩が
幕府に見切りをつけたのです。このような時勢にこの絶句を晋作が詠んで
います。こうして、高杉晋作は四境戦争に臨みました。結果は幕府軍の
敗退となり、長州藩は朝敵の汚名を回復させることが出来ました。
このように、長州藩は最初から尊王攘夷一筋であり、この詩を詠んだ高杉も
そして他の奇兵隊諸隊も覚悟は出来ていました。だから笑って待つと詠んだのは、”いよいよ来るべき時が来た、長州男児の肝っ玉を見せてやる!”と
叫んだのです。
《2016.2.21 周南市 東郭》