高杉晋作、窮地に落ちて志を忘れずの漢詩 | 周南市 東郭の世界

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         偶成
                      高杉晋作
 
魚驚釣飼去 魚は釣飼(ちょうし)に驚いて去り
鳥見矢弓飛 鳥は矢弓(しきゅう)を見て飛ぶ
反復人情事 反復は人情の事
分明知此機 分明に此の機を知る
 
 
【語句解説】
 
偶成(ぐうせい)→釣詩や歌などが、ふと出来あがること
釣飼(ちょうし)→釣り人
矢弓(しきゅう)→ゆみや、飛び道具
反復(はんぷく)→繰り返すこと
分明(ぶんみょう)→他と区別がついて、はっきりしていること
 
 
【東郭解譯】
東行遺稿(下)ある、高杉晋作の漢詩です。野山獄を出て自宅謹慎中の晋作に突然の御下命です。それは、4ヶ国連合艦隊の交渉役をやれという何とも
奇妙な藩命でした。元治元年8月14日に晋作は、講和会議を結びます。
このときの晋作の態度は、御承知の通り破天荒なものだったようですが、
長州藩の精神性を説き、相手に不気味さを与える程でした。通訳の
アーネスト・サトウの後日談では、日本人の品格と気概を認めて、好きに
なったと書いています。多分、浦賀の一件以来の幕府などの対応は、かなり
な卑屈さと相手主導の外交交渉だったようで、英国などは日本開国支配の
戦略を威し手法で成功すると踏んでいたのです。ところが、高杉との講和談判には、英国などの艦長は気骨のある日本人として映り、根性のある人に
対しての敬意を表しました。国を思い国の為なら死ぬ覚悟まである人物というのは、英国や米国では社会通念としてないのです。命を賭けてなんの利益があるのか理解できないのです。日本人の歴史は神代よりの一貫性であり
高杉が古事記を初めから朗々とまくし立てた効果はその辺りにあったのだと
思います。日本の外交の拙さは、どうして高杉流を参考にしなかったのか、
不思議です。私の知る限り白洲次郎くらいしか思い当たりません。
高杉の努力で講和が成立し、長州藩も彦島割譲などの魔手から逃れましたが
今度は、異人にすり寄ったなどと、正義派の同志からも命を狙われる羽目に
なってしまいます。
高杉にとって以上のような危険な状況は元治元年10月くらいから慶応元年に渡って続いていたようで、萩から三田尻・下関を経て九州へ避難します。
この偶成は、そんな折、船の上で浮かんだものでしょう。
「魚驚釣飼去鳥見矢弓飛」まさに船に乗って下関海峡を渡るとき、この
眺めをみて、自分の成功と失敗を重ねあわせ、はっきりとこのチャンスを
知ったと詠んでいるのだと思います。魚と釣りと鳥の文字が見えてなにか
いゝ詩だと思いましたが、晋作は逃亡中にも自分の信念を曲げることなく
なお一層意気軒高だったことを窺わせますね。
                  《2016.1.18 周南市 東郭》