高杉晋作と白石正一郎の関係 | 周南市 東郭の世界

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十一月朔日潜伏白石氏家
                      高杉晋作
 
十一月朔日白井氏の家に潜伏す
 
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元治元年十一月一日
 
脱來狼虎穴    狼虎の穴を脱し来って
潜伏宿君家    潜伏して君の家に宿す
無奈二州裏    奈(いかんとも)する無し二州の裏
人心亂似麻    人心乱れて麻の如し

【語句解説】
 
虎狼の穴(ころう)→危険なところ
 
君の家→長州下関の豪商白石正一郎の家
 
無奈→いかんともしがたい、しかたがない、しょうがない
 
二州→周防と長門
 
【東郭解譯】
 
高杉晋作は、前回「脱走吟」で10月27日富海を出ましたが、下関
赤間の関の白石正一郎宅に潜伏しました。11月1日の日付けがあります。長州二州は、禁門の変(7月19日)後、俗論派が台し、
結句の”人心乱れて麻の似(ごと)し” と嘆いています。

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       東行庵にある白石正一郎の歌碑
 
 
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白石 正一郎とは?
文化937日(1812418日)明治13年(1880年)831日)
日本の商人(豪商)。
文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(8代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。鈴木重胤から国学を学び、重胤の門下生を通じ西郷隆盛が正一郎を訪ね親しくなり、文久元年(1861年)には薩摩藩の御用達となった。月照上人、平野国臣、真木保臣らと親しかった経緯から尊皇攘夷の志に強い影響を受けて、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。
文久3年(1863年)67日、高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、7月には士分に取り立てられた。しかし、あまりに援助しすぎたため、慶応元年(1865年)末頃から資金が苦しくなったと言われている。
明治維新後は、赤間神宮の2代宮司となった。明治13年(1880年)、69歳で死去。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木保臣の次男・真木菊四郎の墓が並ぶ。
西郷隆盛をして「温和で清廉、実直な人物である」と言わしめた正一郎は、新時代を築き上げる人材を経済面で助け上げたスポンサー的存在であった。《Wikipedia》

高杉晋作にとっての白石正一郎とは、27歳年上ですので親も同然な人で
あり、尊王攘夷思想の同志であり、資金を援助してくれたスポンサーでもありました。白石は、長州藩の晋作だけでなしに、坂本龍馬・西郷隆盛とも面識があり、この頃の尊王攘夷の志士の多くは、白石の惜しみない援助を頼りにしています。白石正一郎という人は、この為、本業の
資金繰りが苦しくなり一千両の負債を負ったといゝます。勿論、白石は
晋作を最も優秀な前途ある青年と認めていたところもあり、桜山の療養
の時など棲み家の周旋もしています。白石正一郎は、家財まで潰してと
云われますが、商人として分を弁えた人であったと思います。尊王攘夷
を商人として財力で支援する姿勢です。この倒幕運動は、武士から始まったのは、論を待たない訳でありますが、一方では軍資金・兵器資金の
調達は、得手ではありません。長州藩は極秘の軍資金を貯め込んでいた
とも申しますが、藩論が倒幕になって正規に予算が出せる迄は、藩が
資金を出すわけもなく、この時分は商人などから資金を仰ぐしかありませんでした。それを維新の為に白石は進んで資金を提供するのです。
武士は武力で事を成し、商人は財力で事を成すという住み分けです。
共に大事を成すには、命懸けで取り組んでいます。そういうことから
白石正一郎と云う人は、尊敬できる人であります。多分、白石は晋作が
死んだ爲、新明治になってその才能を生かそうなどとはしなかったの
でしょう。いくら没落したとはいえ、志士あがりの明治政府の役人で
白石正一郎の世話にならなかったものは、いなかったわけですから。
ともあれ、白石正一郎は明治10年赤間宮の宮司になっています。
一代の豪商白石正一郎も地元下関で余生を送りたいと思ったのでしょう。
                《2015.12.27 周南市 東郭》