獄中手記
元治元年四月十二日 讀書四十葉餘
因中作
去年斷髪臥草庵 去年断髪して草庵に臥す
今歳得罪下野山 今歳罪を得て野山に下る
野山獄暗晝如夜 野山獄暗して昼 夜の如く
朝暮附仰咫尺天 朝暮俯仰す咫尺の天
今歳憑身被束縛 今歳身の束縛せられしに憑(よ)って
始知去年隠逸樂 始めて知る去年の隠逸の楽

高杉晋作木像(東行記念館)
【東郭解譯】
4月12日は、読書40枚余りと書いてあります。漢詩は七言絶句に
なりました。晋作さんは文久3年3月15日京都で藩に10年間の暇を
許可され、翌16日には、頭を丸めて”東行”と称します。そして
今歳(こんさい)は、罪を得て野山獄に入ることになりました。
そこは、昼なお暗く野山獄で暮らして咫尺(しせき=非常に近い)
の天と詠んでいます。つまり、この明暗の違いは、身の境遇が
極端に変ったということで、その隠遁した生活が始めて”楽”で
あると知ったと記しました。東行の号も西行法師の無常観に惹かれ
て”東行” としたようです。1月5日に久坂玄瑞らと小塚原の松陰
先生の遺骨を掘り出し世田谷に改葬しましたが、無常観は、一層
深くなりました。松陰先生から”萩に帰って父母に孝行し10年間は
真面目に高杉家を継ぐように・・・” 言われていたからです。
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艸庵近在漢山峰 艸庵(そうあん)は近く漢山の峰に在り
渓水繞屋窓臨江 渓水 屋を繞(めぐ)りて窓江に臨む
如此好景無由見 此の如き好景見るに由(よし)なく
思山思水坐獄中 山を思い水を思うて獄中に坐す
曰唐人山、乃予艸庵所在也
曰く、唐人山は乃ち予の艸庵(そうあん)の在る所なり
【東郭解譯】
上の詩に続いて萩の松本村の好景を詠んでいます。下に注釈の
唐人山が、晋作さんの漢山であり、その峰に艸庵を結びました。
晋作さんは、獄中にあって故郷を思い、松陰先生を思い、そして
同志や長州藩を思います。この獄中期間は、敬親公が与えたのか
松陰先生が与えたのか、天が与えたのか知る由もありませんが、
これまでの人生を振り返り、充分修養し、次の機会の英気を養う
場所になりました。”動如雷電、発如風雨”と彼を評していますが、
晋作さんは、何事もその前に熟考しています。一般には、突飛な
考えであり得ない暴挙で無計画のようにも受け取られがちですが、
そうではありません。英国公使館焼き打ちにしても、完成まえで
英人はいませんでした。連合艦隊への講和も相手をよく研究して
言うべきことをいゝ、折れるところは折れるという話し合い交渉の
基本を弁えての演出のように思います。これまでの日本人になかっ
た交渉術のように思います。既に、日本一の外交官としての資質を
持っていたと言ってもいゝでしょう。
四境戦争の時の大島沖で幕府戦艦を丙寅丸に乗って追いかえした
ときも、熟考した戦略なくしては勝てるものではありません。
幕府軍艦の蒸気を夜間落としたときを狙って丙寅丸が縦横に走り
ダメージを与えました。
こうした、発想の原点は上海へ行って西欧と清国の関係を見たり
野山獄でしっかり心を整理してきたからに他なりません。
そういう意味で晋作さんの獄中期間は、よかったのだと思います。