論語學而第一の一にあるタイトルの詞は、日本人も殆んどご存じでしょう。
「子曰く、学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや。朋有り、遠方より来たる、亦た楽し
からずや。人知らずして慍おらず、亦た君子ならずや。」と読み下します。
中国人もよくこの言葉を使っていますが、孔子の故郷曲阜の孔子学院や山東大学にも掲げて
あります。”学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや”は、まさに学校にぴったりの詞です
からね。面白いのは、河南省の駅だったか”朋有り、遠方より来たる、亦た楽しからずや”
というのが書いてあって、なるほどと感心したものです。
ところが、”人知らずして慍おらず、亦た君子ならずや”はなかなか難しいですよねぇ~
でも、今から2500年の前の孔子の詞で論語の第一の一の取り上げただけあって現在も
普遍です。「言者不必有徳。何者、言之易而行之難(塩鉄論・利議)」は、言う者は必ずし
も徳有らず。何となれば、これを言うは易くして、これを行うは難(かた)ければなりです。
論語で有名な詞も、時々現代中国人や日本人に照らし合わせて、その行動を揶揄したりして
喜んでいますが、真の実践は、”行なうは難し”です。
きょうは、自戒の意味も含めてもう一度勉強しましょう。
《2015.7.25 周南市 東郭》

《菊池市泗水孔子公園》

【白文】
子曰學而時習之不亦説乎
zǐyuēxuéérshíxízhībùyìshuōhū
有朋自遠方來不亦樂乎
yŏupéngzìyuǎnfāngláibùyìlèhū
人不知而不慍不亦君子乎
rénbùzhīérbùyùnbùyìjūnzǐhū
【読み下し文】
子曰く学びて時に之を習う 亦 説(よろこ)ばしからずや
朋(とも)あり遠方より来たる 亦 楽しからずや
人知らずして慍(いきどお)らず 亦 君子ならずや
【現代語訳】
孔子が仰いました、学んだことを復習するは悦ばしいことだある~
友達が遠方より訪ねて呉れるのは楽しい事だなあ~
人に理解されんでも怒ったりせんのが紳士と云うもんじゃ~
【東郭解釈】
論語の最初の学而(がくじ)第一の1にある詞です。因みに学而には16の詞がございます。
学びては学問をすることですが、時にとは機会ある毎にと云った意味で学んだことがある
のに思いだせないとか、違う解釈もあるのではとかおもうような時がありますね。昔の
教科書を引っ張り出して復習して確かめるというのは、悦ばしいことじゃなあ~となんか
楽しそうです。
原語は「説」ですが、悦ばしいと同じです。喜ばしいと書いたのもありますが、学問を
して身につけることを悦ばしいと言っています。生きた学問をすることが喜ばしいと
孔子さんは言っています。
二句目の朋友は、ここでは学問をする志を同じくする人と言う意味の友達です。
その友達というのは、いわば同志・盟友ですから年齢とか知り合った時期とか関係なく
ただ遠方からわざわざ訪ねてくれて、意見を求められたり、考え方や研究成果を交換した
りするのは、実に楽しいことだなあ~と言っています。
三句目の人知らずしては、他人が自分の事を理解してくれなくても憤ったりしないのが
君子とよばれる「徳を積んだ人」のことだよ言っています。孔子は幼いころからよく
学び理想とする政治は500年前の周公旦時代の「礼学」としました。理想社会に実現の
為に之を基礎とする政治を諸侯に問い続けますが、52歳のとき定公の大司寇になった
くらいでそれも頓挫し大半が不遇でありました。それで、人知らずして・・・と言って
いるのですが、只、栄誉栄達だけの為に学問するのでなくて、本当の学問はそんなものは
求めているわけではないので不慍でいいのです。
怒る価値もないと言いたかったのでしょう。ここで君子は自分のことのように聞こえますが
反語としては、自分が仕える君主はどうして君子ではないんじゃ・・・と言っているように
聞こえてなりません。君子の対義語は小人というのですね。
それにしても、孔子が良く弟子に「仁とはなにか?」とかやり取りする場面がありますが、
わけのわからん抽象的概念の語を説明?していますね。もうその時代に「仁」などの概念
があったことには、驚きます。
孔子は、B.C551~491の人ですが、哲学者で言えばソクラテスが B.C470~399、
プラトンがB.C427~347の人であります。世界三大聖人は、孔子・キリスト・釈迦、
世界四大哲学者は、孔子・ソクラテス・カント・釈迦です。(2005.2分再提出)