文久3年6月8日高杉晋作によって奇兵隊が発足した。
次いで6月23日に、長州藩は晋作を長州藩政務役に就任させた、同時に新知行160石を加増
した。敬親公にしてみれば、24歳の晋作しか今後の大長州藩の命運を託す程信頼していた
ということであろう。8月18日の政変以来、京都情勢は長州勢を府内立ち入り禁止の憂き目
に遭い、その為、雪冤工作をすることが長州藩の当面の目標となった。その筆頭が在京の
桂小五郎であったが、次いで久坂玄瑞らも今日に上りました。長州藩の豪傑来島又兵衛は、
元治元年元旦に”この首をとるかとらるか今朝の春” と詠んで遊撃隊と共に京都を武力奪回
しようとします。長州藩は、慎重派が大部分で周布政之助らも来島又兵衛の暴発を止めよう
と、高杉晋作に又兵衛説得に向かわせます。元治元年正月24日に三田尻の来島又兵衛を
訪ね思いとどまるよう云ったところ、又兵衛に”この腰ぬけが・・・” と一喝され、元々
晋作の方が先に奇兵隊も創設し尊攘の根源みたいな信念を持っていたので、”俺のほうが
暴発するッ!” と云って京へ飛び出して行きました。これが、脱藩ということになり、
野山獄に繋がれたのです。晋作は長州藩TOPの座を7ヶ月余りで棒に振るほど激して
いたのです。京で晋作は、雪冤工作中の桂や久坂に逢います。
そして京情勢は、薩摩藩の長州朝敵工作にあり来島等の暴発は、相手の思う壺である事を
知ります。桂の帰国して”来島等の暴発を止めてくれ”との懇願にも敵を前にして帰るに帰れ
ない晋作でありました。こんな時に中岡慎太郎から島津久光を刺殺する計画に刺激されま
す。ところが、これを聞いた山県甲之進は、藩主敬親公の手紙を携えていました。
手紙の内容は、”至急帰国せよ”というものでした。久光を討つこと忠死と覚悟していた晋作
は、「来島又兵衛説得と京へ上って情勢を確認する」といういう藩命であったという温情に
山口に帰ります。帰った晋作に対して長州藩は不可解な行動を取ります。
”脱藩の罪により入牢を申しつける” ということで唐丸籠に乗せられ萩の野山獄に繋がれ
ました。不可解と申し上げたのは、この頃長州に於いては進発派が激に激し大部分が京を
上って名誉回復しようし、もはや藩の意見を押さえられる状況になかったばかりか、逆に
晋作や周布らを因循として殺そうとする輩も出て来たことになるのではないかと思います。
要するに、晋作を安全な野山獄に繋いで置くことが、晋作自身の行動を規制することになり
長州藩としても彼を最後の頼みの綱として温存することにしたのではないかと思います。
歴史というものは、誠に予測を越えた動き方をするもので、結果的に禁門の変で討ち死に
した久坂玄瑞や来島又兵衛らと違って高杉晋作は野山獄に在り獄中手記を書きます。
《2015.7.5 周南市 東郭》

高杉 晋作
自叙
予下獄之初悔旣往思將來茫然黙坐省身責心、旣而以爲我旣下獄、
死不可測、何用省身責心唯槁不死灰待死而已、一日自悟曰、朝聞道
夕死而可矣、是聖賢之道、何倣區々禅僧之所為、因借書於獄吏且讀
且感、或涕涙沾衣、或慷慨扼腕、感去感來、無有窮極乃知向者、
槁木死灰非人道而朝聞夕死為無量眞樂矣、心已感則發口成声是文記
所以不得已也。
甲子四月西海一狂生東行題野山獄北局第二舎南窓下。
【東郭解譯】
自叙(じじょ)
予、下獄の初め既往を悔い、将来を思い茫然として黙坐し身を省みて
責心す。既(すんで)にして以爲(おもえら)くは我すでに下獄す。
死測るべからず、何ぞ身を省みて責心を用いん、唯(ただ)槁木死灰
(こうぼくしかい)、死を待つ已み。一日自ずと悟りて曰く、朝道を
聞かば夕べに死すとも可也と。これ聖賢の道なり、何ぞ區々たる禅僧の
所為(しょい)を倣(なら)わん。因って獄吏の書を借り且つ讀み、
且つ感ず、或いは涕涙沾衣し、或いは慷慨扼腕す。感去り、感来たりて
窮極の知の有る無しの先は、槁木死灰 人道に非ず、而して朝聞夕死は
無量の真楽と爲す(矣)、心已に發口成声すれば則ち感じ、是の文を
記するに已む得ざる所以(ゆえん)也り。
甲子元年(元治元年)四月西海の一狂生「東行」野山獄北局第二舎南窓の
下に題す。
【語句解釈】
槁木死灰(こうぼくしかい)・・・心身に生気・活力・意欲などのないことのたとえ。
涕涙沾衣(ているいちょうい)・・・涙を流し、衣をぬらすこと。沾は”せん”とも読む。
中国語の訳では、「濡れ衣」・「冤罪」となっていて、この方が正しいかもしれない。
慷慨扼腕(こうがいやくわん)・・・慷慨は、正義にはずれた事などを、激しく憤り
嘆くこと。扼腕は、はがゆがったり、憤ったりして、自分の腕を握り締めること。
朝聞夕死(ちょうぶんせきし)・・・論語「子曰、朝聞道、夕死可矣」からの四字熟語