
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第26回 ”夫の約束” が6月28日放映されました。
今回、描かれているのは、元治元年7月19日の「禁門の変」の前7月17日男山石清水八幡宮で
開かれた長州藩の会議のことです。8月18日の政変以後京都を追いだされた長州藩の意見は
池田屋事件(6月5日)以後沸騰し、早急に京へ上って戦おうとする進発派と慎重派に分れま
す。慎重派は周布政之助、高杉晋作や桂小五郎らは藩論の沈静化に努め、福原元僴・益田
親施・国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を
決意します。益田、久坂らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、
福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。” としていて正に出陣前の会議になり
ました。この会議で来島又兵衛と久坂玄瑞の意見が対立し玄瑞は押し切られるのです。
久坂玄瑞は、元治元年(1864年)4月、薩摩藩の島津久光、福井藩の松平春嶽、宇和島藩の
伊達宗城らが京都を離れたのを機会と捉え、急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の
上京を要請した。
6月4日、長州にて進発令が発せられた。また、池田屋事件の報が国許に伝わると、藩は上下
を挙げて激発したとされている。久坂は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上した。
6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し、朝廷に奉った。この段階で
は長州藩に同情し、寛大な措置を要望する他藩士や公卿も多かったが、7月12日に薩摩藩兵
が京に到着すると形勢が変わってきた。また、その頃幕府は諸藩に令を下し、京都出兵を促
していた。
7月17日、男山八幡宮の本営で長州藩最後の大会議が開かれた。
大幹部およそ20人ほどが集まった。玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、
兵を引き上げる案を出したが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄っ
た。久坂は「今回の件は元々、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようという
ことであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。
それに世子君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決する
がよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分では
ない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島
の進撃論と対立した。来島は「卑怯者」と怒鳴り、「医者坊主などに戦争のことがわかる
か。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一
手をもって、悪人を退治する」と座を去ったとされている。最年長で参謀格の真木和泉が
「来島君に同意を表す」と述べたことにより、進撃と決定した。玄瑞はその後一言も発する
ことなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻った。
諸藩は増援の兵を京都に送り込んでおり、その数2万とも3万ともされる。対して長州藩は
2,000に満たない数の兵力で戦いを挑むこととなった。《Wikipedia》
☆結局、長州軍の先発隊2,000は、幕府の挑発に乗せられて京都市内へ入って行きますが、
このとき、冷静な判断をする人間が久坂玄瑞だけになっていたのも不孝であります。
しかし、長州藩の朝廷工作を知った禁裏守護総督の徳川慶喜が自ら内裏へ乗りこみ
孝明天皇から直接、長州討伐の勅命を賜ったのは劣勢を挽回するに充分でした。
勅命が長州討伐と下った以上、それを覆すことは不可能でした。先発隊は、瀬戸内海の
長州軍本隊(隊長:世子毛利定廣)2,000名を引きあげさせて、自分達は直訴という
死に場所を求めて蛤御門へ突っ込んで行きました。ドラマ「花燃ゆ」では禁門の変の
武力衝突は、次回以降になりますが、若し、男山の作戦会議で高杉晋作や桂小五郎が
その場に居たらどうなっていたでしょうね。恐らく、久坂達に撤兵を促すより、
一緒になって突っ込んで行ったのではないかと思います。高杉晋作を京から呼び戻して
野山獄に繋いで置けば安全です。これは周布政之助や父小忠太の願いでもありました。
でも、その高杉晋作が村田蔵六等と回天を起こすことになります。吉田松陰先生の
至誠通天は、今後も続いて行くのですねぇ~