
亀山八幡宮

下関海峡
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第21回 ”決行の日” が5月24日放映されました。
今回描かれているのは、文久3年(1863年)の時代であります。
ドラマは、まず明るいニュースからということで小田村伊之助の尽力により吉田松陰の
復権を藩主毛利敬親公が認めます。杉梅太郎長男「小太郎」が長州藩兵学指南「山鹿流」
の家督を継ぐことになりました。

みもすそ川公園の長州砲
ドラマ花燃ゆ「決行の日」とは、4月20日将軍家茂が攘夷決行の日を5月10日と定めて上奏
し、長州藩は馬関(下関)海峡を封鎖し外国船に攻撃を加えた「下関戦争」始まりの日でも
ありました。5月10日、アメリカ商船ペンブローク号、5月23日フランスのキャンシャン号
5月26日オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号を攻撃し何れの艦も損傷被害を受けて逃走し
ました。しかし、日本までやってくる欧米艦隊の実力は、侮れません。
”元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は
長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。仏蘭米の三国に参加を呼びかけ、都合
艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関)と
彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。”とWikiに記されて
います。

亀山砲台跡

「花燃ゆ」の最後の部分で亀山砲台などと共に連合艦隊のロケット弾と長州藩の弾丸が
紹介されていました。6月1日にやって来たのはアメリカの軍艦ワイオミング号でした。
その11インチ・ダーグレン砲は壬戌丸のボイラーを一撃の下に打ち抜いて爆発・座礁させた
ということですが、長州藩のカノン砲などでは、役に立ちません。結局、下関戦争では
長州藩は砲台を乗っ取られ敗北します。つまりは技術力の差は歴然としている事を察した
わけで、その後の長州藩の兵器・兵術技術については熱心になっていきます。
まあ、文久3年頃の日本は総じて自前の技術は無く、みんな外国からの買い物であり、
それに兵器などは最新鋭のものは売ってくれるはずもなく、時代遅れ品ばかりでした。
でも、一番先にこの技術格差を実感したのは、恐らく長州藩志士たちでしょう。
特筆は、文久3年4月18日毛利敬親公が、長州ファイブをヨーロッパに留学させたことで
あります。この先進技術の習得こそが、明治時代を作って工業を発展させます。
井上馨(かおる)、伊藤博文、山尾庸三(ようぞう)、遠藤謹助(きんすけ)、
井上勝(まさる)の5名のサムライは、日本の基礎を築いたといってもいゝと思います。
この時、渡航費用の工面をしたのが藩邸留守居役の村田蔵六(大村益次郎)です。
蔵六さんの気持ちも、この技術習得留学は彼自身が蘭方医から近代兵学を独習したように
是非やって貰わねば困ると思った筈です。彼は今日余り評価されませんが、日本の軍隊の
戦い方を変えた人でもあります。例えば、それまでの戦は鎧・甲冑を着て馬上に跨り
大将同士が、 ”やぁーやぁー我こそは・・・” と名乗って一騎打ちが普通で謂わば個人戦
でした。鉄砲にしても信長時代の火縄銃でしたので雨などでは使用不可能でした。
蔵六さんは、兵術を団体形式に変え、兵にライフル銃を持たせ、軍装も動きやすいズボン
などに変えるようなことをして日本陸軍の事実上の創設者と云われる人です。

官軍・賊軍の戦いで旧幕府軍は、火縄銃で官軍はライフル銃で戦いました。尤も官軍が
偉かったとは申しませんし、そういう費用がなかったのも明治の苦労の一つですが、
この技術力の隔差は決定的であったのです。
そういう流れで行くと、花燃ゆ21回の主役は、長州藩藩主「毛利敬親公」でありましょう。
長州ファイブのイギリス留学を許すことは、幕府に対して鎖国の禁令を破る密航であり
ました。吉田松陰の黒船密航の寛大さや高杉晋作の幕船「千歳丸」での上海見聞も理解を
示して、その報告をつぶさに聞いて世界を知ろうとしています。
《2015.5.26 周南市 東郭》
