
高杉晋作像(東行庵)
【遊清五録】
鞍山々々去上海四拾餘里、諸子大踴躍爲入生地之思、五月五月天晴風順船馳如矢、
忽至呉淞江々々々乃洋子江中小名也、觀望两岸相隔三四里計、四面茫々草野、更不見山、
外國船皆碇泊檣花如林、本船亦碇泊于此、待明朝川蒸気船來而上海去此纔七里、
五月六日早朝川蒸気船來到本船左折溯江两岸民家風景殆與我那無異、右岸有米利堅商館
嘗長髪賊與支那人戰于此地云、午前漸到上海港此支那第一盛津港、欧羅波諸那商船軍艦
數千艘碇泊檣花林森欲埋津口、陸上則諸邦商館紛壁千尺、殆如城郭其廣大嚴烈不可以筆紙
盡也、午後官吏上陸至和蘭館予亦陪従官吏登樓上、従臣待樓下、予與清人三两名筆話、
官吏與蘭人應接了、乃以清人爲介者、徘徊街市、土人如土檣圍我輩其形異故也、毎街門
懸街名、酒店茶肆與我邦大同小異唯恐臭氣甚而已黄昏歸本船甲板上、極目四方舟子欸乃聲
與軍艦發砲之音相應實一愉快之地也、入夜两岸燈影泳水波光景如晝。

上海呉淞江
【東郭解譯】
鞍山(あんざん)々々上海四拾余里を行く、諸子大勇躍生地の思いで入るを為す。
五月五日天(てん=一日)晴れ、風順(したがい)船は矢の如く馳せる。
忽ち呉淞江に至る、呉淞江は乃ち揚子江中の小名(しょうめい)也。
両岸を観望するに相隔たるに三・四里を計る、四面は茫々なる草野して更には山を見ず。
外国船皆碇泊して檣花(しょうか=帆)林の如し、本船(千歳丸)も亦ここに碇泊す。
明朝(みんちょう)川蒸気船來を待ち、上海此の僅か7里を行く。
五月六日早朝川蒸気船到来、本船左折し遡江(そこう)す、両岸の民家風景は殆んど
我那(わがくに)と異なる無し、右岸米利堅(あめりか)商館あり、嘗って長髪賊と
支那人は此の地で戦うと云う、午前漸く上海港に到る、ここは支那第一の盛津港なり。
欧羅波諸那(ヨーロッパ)諸国の商船・軍艦数千艘碇泊し、檣花林森(しょうかりんしん)
として津口(つこう)を埋めんと欲す。※檣花=帆柱のこと。
陸上則ち諸邦商館の紛壁千尺(ふんぺきせんじゃく)殆んど城郭の如し、其の広大厳烈なる
は筆紙を以って尽すべからざる也、午後官吏上陸し和蘭(オランダ)館に至る、予もまた
官吏に陪従(べいじゅう)し登樓す、従臣は樓下で待つ、予と清人三両名筆話す、
官吏は蘭人が応接したり、乃ち以って清人は介者と為し街市を徘徊す。
土人(現地人)、土檣の如く我輩を囲む、その形異故也(異形)、街門毎に街名を懸け、
酒店・茶肆(ちゃし)は我邦(わがくに)と大同小異なり、唯、臭気甚だ恐(きょう)に
して已(しりぞ)く、黄昏に本船甲板に帰る。極目(みわたすかぎり)四方舟子の欸乃
(あいだい)の聲と軍艦発砲の音、相応じ実に愉快の地なり。夜に入り両岸の灯影は
水波を泳ぎ光景は真昼の如し。