吉田松陰の留魂録を読んでみよう(十節) | 周南市 東郭の世界

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留 魂 録
 
 
 
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
 
 
 
 
十月念五日           二十一回猛士
 
 
 
 
 
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原文】は、16節ありまして、今回は第十節です。
 
 
 
 
 
 
一、堀江常ニ神道ヲ崇メ  天皇ヲ尊ヒ大道ヲ天下ニ明白ニシ
 
      異端邪説ヲ排セント欲ス謂ラク天朝ヨリ教書ヲ開板シテ天下ニ
 
  頒示スルニ如カズト余謂ラク教書ヲ開板スルニ一策ナカルヘ
 
  カラズ京師ニ於テ大学校ヲ興シ上 天朝ノ御学風ヲ天下ニ示シ
 
  又天下ノ竒才異能ヲ京師ニ貢シ然ル後天下古今ノ正論確議ヲ
  
 
  輯集シテ書トナシ天朝御教習ノ餘ヲ天下ニ分ツ時ハ天下ノ人心
 
  自ラ一定スヘシト因テ平生子遠ト密議スル所ノ尊攘堂ノ
 
  ト合セ堀江ニ謀リ是ヲ子遠ニ任スルコトニ決ス
  
 
  子遠若シ能ク同志ト謀リ内外志ヲ協ヘ此事ヲシテ少シク端緒
 
  アラシメハ吾ノ志トスル所モ亦荒セズト云フヘシ去年勅諚綸旨
 
  等ノ事一跌スト雖トモ尊皇攘夷苟モ已ムヘキニ非レハ又善術ヲ
 
  設ケ前緒ヲ継紹セズンハアルベカラズ京師学校ノ論亦竒
 
  ナラズヤ                
 
 
【読み下し文】
 
一、堀江常に神道を崇(あが)め、天皇を尊び、大道(たいどう)を天下に
 
  明白にし、異端邪説(いたんじゃせつ)を排(はい)せんと欲す。
 
  謂(おも)へらく、天朝より教書を開板(かいばん)して天下に頒示
 
  (はんじ)するに如(し)かずと。余謂へらく、教書を開板するに
 
  一策なかるべからず。京師(けいし)に於いて大学校を興(おこ)し、
 
  上天朝の御学風を天下に示し、又天下の奇材異能を京師に貢(こう)
 
  し、然る後天下古今の正論確儀(かくぎ)を輯集(しゅうしゅう)して
 
  書となし、天朝御教習の余を天下に分つ時は、天下の人心自ら一定すべ
 
  しと。因って平生子遠と密議する所の尊攘堂の議と合せ堀江に謀り、
 
  是れを子遠(しえん)に任ずることに決す。
 
  子遠若し能く同志と謀(はか)り、内外志を協(かな)へ、此の事を
 
  して少しく端緒あらしめば、吾れの志とする所も亦荒(こう)せずと
 
  云ふべし。
 
  去年勅諚綸旨(ちょくじょうりんし)等の事一跌(いってつ)すと
 
  雖も、尊皇攘夷苟(いやし)も已(や)むべきに非ざれば、亦善術
 
  (ぜんじゅつ)を設け前緒を継紹せずんばあるべからず。京師学校の論
 
  亦奇ならずや。
 
 
 

【用語解説】・・・《吉田松陰.Comより》
 
 
神道=日本固有の民族宗教。『古事記』『日本書紀』などに見える神代の故事に基づいて、
神(自然神、祖先神、氏神等)を祭り、五穀豊穣、武運長久を祈る。かんながらの道。
天朝より教書を開板して...如かず=朝廷より教育に関する文書を発行して全国に公布
するに越したことはない。
奇材異能を京師に貢し=優れた才能の持ち主を京師の大学校に推薦し。
正論確議を輯集して書となし=正論、定説を編集して書物を作り。
天朝御教習の余=朝廷で学習された余分。
尊攘堂=松陰の遺志を継いだ品川弥二郎が、明治二○年、尊攘の志士を祭り、肖像、遺墨、
遺品を保存するために建てた堂。もと下京区錦小路にあったが、今は京都大学校内に移築。
是れを子遠に任ずる=「尊攘堂建設の任を杉蔵に託す」(安政六年一○月二○日付)
端緒あらしめば=きっかけを作っておけば。   荒せず=すたれない。
勅諚綸旨等の事一跌す=安政五年、大老井伊直弼が勅許を待たず、日米修好通商条約を調印
したこと。「一跌」はあやまつ。
善術を設け前緒を継紹せずんばあるべからず=善い方策を作り、先人の事業を受け継がなけ
ればならない。
亦奇ならずや=なんと素晴しいことではないか。
 
 


【東郭訳解】堀江克之助(よしのすけ水戸藩郷士)は、常に神道を崇拝し、天皇を尊敬し
 
その大道を天下に示して、異端邪説を排除しようと思っている。また彼は、朝廷より教育に
 
関する文章を発行して全国に公布するのにこしたことはないと考えている。私がおもうに、
 
教書を公布するのに一つの方法がある。京都に大学を興し朝廷の学風を天下に示して、
 
全国の全国の逸材・秀才を京都に集め正論、定説を編集して書物を作り天朝が学ばれたあと
 
天下に示して学習させれば、全国の人心は自ずから安定する筈である。よって平素より
 
杉蔵(入江九一)と相談している尊攘堂の事を合わせて堀江に相談し、これを入江九一に
 
任せることにした。入江九一が同志とよく相談し内外の同志の協力を得れば、私の志も無駄
 
にはならないだろう。去年勅諚綸旨の企みは失敗したが、尊王攘夷運動だけは辞めるべきで
 
なく、尊王攘夷運動は止めるべきでなく善い方策を考えて受け継いで行かねばならない。
 
京都の大学校設立はなんと素晴らしいことでしょう。
 
 

※尊攘堂・・・吉田松陰は京都に尊攘堂を建てて、勤王の志士を祀り、人々の心を奮い
 
立たせようという志を抱いていたが果たさず、安政6年(1859年)10月門人の入江九一に託
 
して刑死した。しかし入江もまた元治元年(1864年)7月の禁門の変で死去し、吉田の遺志
 
は遂げられなかった。
 
門人の品川弥二郎がこれを偶然知り、師の遺志を果たそうと明治20年(1887年)ドイツから
 
帰国すると京都高倉通錦小路に尊攘堂を建造し、勤王志士の霊を祀り、志士の殉難の史料、
 
遺墨、遺品などを収集し、祭儀をいとなみ、一般の参拝を許し、収蔵品を観覧させた。しか
 
し品川は一家のものとするのを潔しとせず、京都在住の有志から保存委員20余名を選定し、
 
将来のことを委託したが、明治33年(1900年)2月死去すると、吉田が京都に大学を興そう
 
とした素志に基づいて10月尊攘堂およびその収蔵品を京都帝国大学に寄贈することになり、
 
1903年同大学構内(現在の京都大学吉田キャンパス)に新築寄贈した。《Wikipediaより》
 

東郭ブログ長州歴史文化散歩「下関長府の萬骨塔とは?」2014.11.6付けに長府の尊攘堂
を載せています。今は、長府博物館と名前を変えていますが、松陰先生→入江九一→品川弥
次郎→桂弥一(創設)と引き継がれました。興味のある方は、ご覧戴きたく存じます。
それにしても松陰先生は、すでに大学を創設しようとされていたとは、驚くべきことです。
 
 
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尊攘堂並萬骨塔建設由来板(現下関長府博物館)