
吉田松陰・金子重輔像
所在:山口県萩市椿東の吉田松陰誕生地
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第17回 ”松陰、最後の言葉」が4月26日放映されました。
今回、吉田松陰が江戸伝馬町に於いて処刑されます。
安政6年5月25日萩野山獄から囚人籠で長州藩江戸屋敷に到着したのが6月25日(24日?)
です。江戸桜田藩邸に留め置かれた松陰は、7月9日幕府より初めて和田倉門辰ノ口の幕府
評定所に呼び出されます。
松陰の取り調べに当たったのは寺社奉行 松平伯耆守、勘定奉行 池田播磨守、町奉行 石谷
因幡守の三奉行と大目付でした。松陰の容疑は梅田雲浜との攘夷運動の企みと御所内への
落とし文でした。その後、吟味役の巧みな誘導尋問に乗せられて伏見要駕策や間部詮勝
要撃策を喋ってしまいます。今日の「留魂録を読んでみよう」でも書いていますが、
自分の信念を幕府が聞いてくれる期待感があって、幕藩体制に対して真っ向から論議したい
松陰と幕藩体制に楯突き犯罪人として処罰する吟味役では、話が通じる筈もありません。
松陰は、直ちに伝馬町の牢獄に繋がれました。
それから、9月5日、10月5日の取り調べも松陰にとっては唯形式のみだったようですが、
10月16日の呼び出しで、口書(供述書)を読みあげられて、これに”署名せよ” となった
というのです。ただ、この間幕府は尊王攘夷の活動家を随分処罰し総数は100名以上に
上りました。梅田雲浜は9月14日獄死、橋本左内と頼三樹三郎は10月7日に死刑されて
おり、松陰の運命も安政の大獄の方針に沿って行きます。
松陰も死を予感し、家族や弟子たちに遺書を書きますが、10月20日には「諸友に告ぐ」
として諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為(た)めに我れを哀しむなかれ。
我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに
如かざるなり」と書いています。留魂録は、10月26日黄昏までに2通書きました。
そして10月27日死刑を宣告され、山田浅右衛門によって斬首されました。合掌・・・

吉田松陰墓
以上が17日に放映された粗筋ですが、一部始終が留魂録(吉田松陰)に記されています。
いま、「留魂録を読んでみよう」と題して長州偉人伝でそれを訳していますが、松陰先生
の生の声が筆跡によって伝わって来ます。僅か29歳で死んだ青年が書いた数々の講義録や
手紙などは、その信念と数の多さからよく研究されています。私も敬意を表して”先生”と
書きましたが、その内容などは奥深く真に理路整然としており、しかも暖かい人間味を
感じさせて呉れます。更には、その時代の若者の純粋な生き方が貫かれており、日本的な
特質を備えた英雄だと思います。
