浩然の気とは? | 周南市 東郭の世界

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浩然の気(孟子 公孫丑上)
 
天地の間にみなぎっている、非常に大きく強い気のこと
 
 
 
敢問、夫子惡乎長。曰、我知言。我善養吾浩然之氣
 
敢えて問う、夫子(孟子のこと)惡(いず)くにか長ぜると。曰く、我言を知る。
我善く吾が浩然の気を養うと。
 
敢問、何謂浩然之氣。曰、難言也。
 
敢えて問う、何が浩然の気と謂うと。曰く、言い難し。
 
其爲氣也、至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之閒
 
その気たるや、至大至剛、直をもって養うて害なければ、則ち天地の間に塞がる。
 
其爲氣也、配義與道。無是餒矣。是集義所生者、
 
その気たるや、義と道に配す。是れ無ければ餒(う)う。是れ集義の生ずる所の者にして
 
非義襲而取之也。行有不慊於心、則餒矣。
 
義襲(おそ)うてこれを取るに非(あら)ざるなり、行いが心に慊(あきた)ざることあれば則ち餒(う)う。
 
 
 
【東郭現代語訳】
 
公孫丑(孟子の弟子)が孟子に“先生は何が長じておられますか?”すると孟子は、
 
“私は、言葉を知っている、私は善く浩然の気を養っている” と答えました。
 
更に公孫丑は孟子に“浩然の気とはなんでしょうか?”と問うと、曰く言い難しと言って
 
それは、至大至剛(この上なく大きく、このうえなく強いさま)にして正しい心を養って
 
害(そこ)なわければ、それは天と地の間に満ちている気として感じるものである。
 
その(浩然の)気は義と直によって成り、義と直がないと萎えてしまう。
 
これは、義に集るところに発生するものであり、義を襲って取れるものではない。
 
行動に心がやましいところがあれば、それは萎えてしまう。
 
 
 

 
吉田松陰先生が野山獄や松下村塾で講義したという「孟子-公孫丑上」の講義内容を
 
まとめたものが、安政二年七月二十六日の「講孟劉記こうもうさっき」ですね。
 
「浩然の気」の講義をしていますが、判り易くて驚嘆いたします。囚人や塾生たちが
 
熱心に受講したことも頷けます。是非、御覧になって戴きたく思います。
 
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この一節、最も詳(つまびらか)に読むべし。
 
 
「至大」とは浩然の気の形状なり。
 
此の気の蓋(おほ)ふ所、四海の広き、万民の衆(おほ)きと云へども及ばざる所なし。
 
豈(あに)大ならずや。然(しか)れども此の気を養はざる時は、一人に対しても
 
忸怩(じくじ)として容れざる如し。況(いはん)や十数人に対するをや。況や千万人をや。
 
蓋し此の気養いて是を大にすれば、その大極(きはま)りなし。
 

餒(だい)してこれを小にすれば、その小亦極まりなし。浩然は大の至れるものなり。

 
 


 「至剛」とは浩然の気の模様なり。「富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、
 
威武も屈する能はず」(文天祥の正気ノ歌にある一節)と云ふ、即ち此の気なり。
 
此の気の凝(こ)る所、火にも焼けず水にも流れず、忠臣義士の節操を立つる、
 

頭は刎(は)ねられても、腰は斬られても、操は遂に変ぜず。

 「至大至剛」は気の形状模様にして「直を以って養ひて害すること無し」は、

 
即ち「其の志を持し、其の気を暴(そこな)ふこと無し」の義にして、浩然の気の養ふの
 
道なり。
 
 


「其の志を持す」と云ふは、吾が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰(つ)めて、
 
片時も緩(ゆる)がせなくすることなり。
 
学問の大禁忌(きんき)は作輟(さくてつ)なり、或ひは作し、或ひは輟(や)むることあり
 
ては、遂に成就(じょうじゅ)することなし。故に片時も此の志を緩(ゆる)がせなくするを
 
「其の志を持す」と云ふ。



 「直を以って養ふ」と云ふも同じ工夫にて、平日する所、悉(ことごと)く
 

直道(ちょくどう)に外(はづ)るることなくして、是を以て此の気を養育することなり。

 「其の気を暴(そこな)ふことなかれ」と云ふは、即ち「害すること無し」と云ふと同じ。

 
害すると云ひ、暴ふと云ふに二様あり。一は私欲を肆(ほしいまま)にし、
 
直道を以って志を持することを忘るる時は、自ら省みて愧(は)づる所あり、
 
大に気を暴(そこな)ひ害するなり。
 
二は浩然の気の至大至剛は、為す所道義に合ふよりして、自ら生ずるものなり。
 
然るに道義に合ふと合はぬをも考へず、向見(むこうみ)ずに大と剛とをなさんとする時は、
 
一時は我慢血気にて狂暴粗豪を以って剛も大もなすべけれども、遂には愈(いよいよ)自ら
 

省みて愧(は)づる所あり。

 
 「天地の間に塞がる」と云ふは、其の効験(こうげん)を云ふなり。
 
浩然の気は本是天地間に充塞(じゅうそく)する所にして、人の得て気とする所なり。
 
故に人能(よ)く私心を除(のぞ)く時は、至大にして天地と同一体になるなり。
 
今、吾れ一言一行の細よりして、浩然の気は古来聖賢相伝えて、孟子に至り発明する処、
 
学者に於いて最も切実なること故に、特に是を詳(つまびらか)にす。
 
(『講孟剳記』吉田松陰著、近藤啓吾全訳注)
 

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気有浩然 学無止境
 
 
 
 
山東大学(新校)に掲げてあり校訓で「気有浩然 学無止境」です。”気は浩然にあり、
 
学は止境なし”と読むのでしょうか、”学問には際限がなく浩然の気を養うのだ!”或いは
 
”浩然の気を持って学問をすれば止まる事なく進むものだ!”といったような意味です。
 
山東大学は、生徒数6万人留学生1000人の中国有数の名門校で創立は1901年です。
 
山東省は孔子・孟子の故郷であり、そういう意味では学生もその思想から節度ある
 
”浩然の気”を養っている若者が多いと感じました。わたしも5年前にここへ留学して
 
この写真を撮ったのです、あの時は未だ”浩然の気” があったのですが、近頃はまったく
 
萎んでいます。ところが、最近「花燃ゆ」などで再び吉田松陰を調べていたら孟子の
 
”浩然の気”に出会いました。吉田松陰先生の孟子の消化は見事です。「花燃ゆ」でも
 
最初から”なんの為に学問をするのか?” と松陰が問いかけていますが、彼の思想は
 
”至誠通天”であり、学問は、実践によってのみ達せられるという考えです。それは、
 
「知行合一」でもあります。私的には、この「気」が懐かしく想いだされてきたわけです
 
此の気の蓋(おほ)ふ所、四海の広き、万民の衆(おほ)きと云へども及ばざる所なし”
 
古稀といえども、まだまだ、頑張ってみようという気になりました。
 
                          《2015.3.19 周南市 東郭》