菅谷高殿の内部を見学することが出来ました。
此処での「たたら製鉄」操業は、宝暦元年(1715年)から大正10年(1921年)迄の170年間
行なわれました。施設長の朝日さんのお話では、その間8,643回たたら製鉄が行なわれた記録
があるそうです。たたら製鉄は、三日三晩行なって鉧(ケラ)を採り出すのを一代(ひとよ)
と言うそうですから8,643代(よ)なのですかね。単純計算で年平均50.8回では、毎週操業
していたことになります。村下(むらげ)と呼ばれる技師長は、一睡も出来ない作業であり
大変厳しい一家相伝ので技術であったと推察されます。
今回は、その職場である高殿内の「たたら」を見学して来ましたので、紹介致します。
《2015.1.13 周南市 東郭》



「たたら」は、鑪と書きます。「鈩」が簡略化された字体で口、囲炉裏、さかば、ふいごの
意味があります。いかにも漢字的と思い中国語で辞書を引くと、これがラザホージウム
Rfで、とんでもない間違いになります。和式製鋼法のたたら吹きは日本独自の技術です。
ただし、「たたら」という古代製鉄法は世界各地にありました。
製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)がたたら(踏鞴)と呼ばれた
為つけられた名称とありますので、踏鞴を使いたいと思います。
そもそも”たたら”という言葉は、ヒッタイトのトルコ系民族のタタール人に由来する、
インドのサンスクリット語でタータラの熱に由来するとか言われていますし、日本各地に
”たたら”の地名があり私達の山口県にも「多々良」があります。

《村下屋敷の写真より》
菅谷高殿の内部中央に”たたら”の本床があります。
断面図で地上部分と地下の部分に分けられていますが、その大きさと周到さに驚きます。
大きな役目は、保温と湿気対策で”たたら”の微妙な温度管理が伺えます。
中央の炉は、長さ3m、幅1m、高さ1.2m角型で粘土で造られています。
この釜づくりも村下(むらげ)技師長の役目で、製鉄中に不純分のPやSを吸収して
痩せていくそうです。従ってこの釜は一代限りですが、村下の腕により品質に影響する
技術が込められています。
この釜(炉)に、砂鉄と木炭を交互に適量入れ、火加減を見ながら原料を追加し、
下から風を送り続けます。砂鉄をしじり(燃やし)ながら半溶解状態にし滴下させて、
大きな塊を育てます。三日三晩の物質収支は、文献によって多少違いがありますが、
砂鉄13ton、木炭13tonから鉧4tonが出来、そこから玉鋼が1ton出来ます。
この場合の鉧(ケラ)は、ズク(銑)1ton余り含んでいます。銑鉄は、鋳物・製鋼と
なります。何れにしても玉鋼1トン造るのに、膨大な原材料が必要です。
木炭だけ考えても原木90㌧必要なようです。一回(一代)の製鉄で1ヘクタールの
山林が必要とあります。菅谷高殿では、年間平均50.8回ですから50ヘクタールの
山林の木が伐採されたことになります。
でも、大丈夫!出雲地方では、樹木の再生が可能だったのですね。170年間も
続いて来たのですから、樹木面では、完全循環が確立されていたと思います。
実は、このことが朝鮮半島(中国統治の楽浪郡)から日本へ製鉄が伝わってきた
重要な要素になっていると思いますが、別の機会に書きます。

天秤 吸子
天秤吹子(鞴)が釜の両側に備えられ、番子(ばんこ)と呼ばれる人が、大汗で踏んでいま
す。鞴から送られてきた風を風配(かぜくばり)でパイプ(木呂)に送り炉へ送風します。
それらの空気が洩れないようにしている部分(つぶり台)があります。送風パイプの木呂は
左右20本ずつあり、空気を炉内に均等に送る工夫がされています。
天秤なので、この図では向こうとこちらに踏み台=蹈鞴(たたら)がついていて、たたらを
踏むのです。砂鉄と木炭を交互に入れ空気を送って還元させるのですが、天秤吹子が17世紀
末に発明され鉄生産が飛躍的に増加したそうです。とはいえ、炉内の燃焼については、
還元反応を均一化させる為、村下の技術力が必要です。と言いますのも空気の送風量は
一定でなければなりません。バファータンクもない人力だけでは、ムラも出ます。
したがって番子さん達は、相当きつい作業で村下の叱咤が続いたことでしょう。
ところで、本当かどうかは判りませんが、替わり番子(ばんこ)は、この作業から
出た言葉のようです。あまりにきつい労働なので、”お~い 替わってくれ!” と言ったの
でしょう。もう、ひとつ「たたらを踏む」は、よろめく、ふらつくの意味ですが、この
作業から来ていると申します。

修繕中の高殿内部

高殿内部(工事中)
中央の四角いものが釜(炉)です。こちらの木製の枠が天秤吹子です。
木呂のようなパイプも見えています。
☆本日もお立ち寄り有難うございます。
次回は、高殿周辺を投稿したいと思っています。