孔子聖蹟図(1)尼山致祷 | 周南市 東郭の世界

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熊本県菊池市泗水町にある「孔子公園」は、そもそも村名の決定から中国地名の泗水が当てら
 
れた。平成元年には、泗水誕生100周年を迎えたというから明治22年のことである。
 
そこで、100周年記念事業として泗水孔子公園造成を発案し、平成4年に完成した。
 
江戸時代の各藩の教育は孔子を祖とする儒学中心であり、その精神的な伝統を継承する公園で
 
ある。中国では孔子思想が歓迎される時代もあり、又、排斥される時代も繰り返されてきた
 
が、1966年から10年間の文化大革命に於いて儒学批判・孔子批判が繰り返されて、孔子関係の
 
廟や像が破壊されてしまった。漸くその嵐が静まったごろ、日本にこういう公園が出来た事は
 
非常に興味深いことである。今年、孔子生誕2565周年ですが、この間孔子思想が滅んでいない
 
ところを見ると普遍的価値があると思わざるを得ない。
 
                          《2014.10.15 周南市 東郭》
 
イメージ 1
 
                孔子公園の祀聖亭
 
     中に孔子像が祀られ、周りを弟子達が囲んでいる造りになっています。
 
 
 
 
 
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                   孔子聖蹟図
 
 中国簡体字で”孔子圣迹图” と書きます。全部で104枚の鐫刻で孔子の生涯を表しています。
 
 镌刻juankeは、”せんこく”と読み、彫刻の事で曲阜市の劉祥徳という人が彫りました。
 
 書丹は、彫る前に紙に書くこと、立石は、樹立碑石です。
 
 図の右に日本語で賛を入れているのは、貴重であると思います。
 
 
イメージ 3
 
 孔子公園には、8枚の孔子聖蹟図があります。
 
 これは、2番目の「尼山致祷」で孔子の生まれた環境が書いてあります。
 
 
【尼山致祷】
周霊王之19年買魯襄公之20年是年聖母顔氏祷於魯尼丘山
明年乃生孔子既生首上象尼丘周名丘字仲尼
 
19年魯襄公20年聖母顔氏は、魯の尼丘山で祈祷した。
明くる年孔子が生まれた。尼丘のような首上圩顶でうまれたので
名を丘、字名を仲尼とした。※首上圩顶の意味については、省きます。
 


 
孔子的生日
 
孔子生年一般按《史记·孔子世家》所记为鲁襄公二十二年,而生月生日《史记》未记,
按《谷梁传》所记“十月庚子孔子生”。换算为当今之公历应为公元前551年9月28日生。 
传统的祭孔日期定在农历八月二十七日,据说是出自出自孔氏家谱,国民政府曾据此定阴历
八月二十七日作为教师节。
不过最近有人通过研究并运用现代天文学方法,推算出我国古代伟大的思想家、教育家孔子
出生于公元前552年10月9日。这一结论不仅将先前一般认为的孔子诞生年份提前了一年,
而且改写了孔子的生日。
 
孔子の誕生日について、紀元前551年9月28日としていて、農歴の8月27日が教師の日になり
ました。でも最近は、研究により紀元前552年10月9日と変えているようです。


出自
紀元前552年(一説には551年)に、魯国昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)
 
市で陬邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇(しゅくりょうこつ)、
 
母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在(がんちょうざい)とされるが、『論語』の中には
 
詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘
 
で武勲をたてていた。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる。また『史記』には、
 
叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授か
 
ったとも記されている。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して
 
貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」
 
と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとした
 
うえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対し
 
て、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている。
 
孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている。
 
                                 《Wikipediaより》


孔子の言葉を弟子の子貢が簡に彫っている姿をテレビ放映でみますが、それが論語として
 
今日まで、私達も眼にする事が出来るというのは、驚きでしかありません。
 
今から、2500年以上前にすでに文字も確立され文章体形も出来ていた訳ですからね。
 
孔子が言った口語が、そのまゝ論語になった訳でなく、子貢は要約して簡潔に書いた筈です
 
から、現代人でもなかなか難しいことです。いわゆる思想的な言葉や観念的な言葉が当時
 
すでに生みだされており、現代と同じように使われていたなんてとても信じられません。
 
これが、どのように発展して行ったか、すでにご存じとおもいますが、江戸時代の識字率は
 
70%という数字が出ています。寺子屋が庶民の読み書きに果たした役割は大きく、当時は
 
世界一だとも聞いています。
 
国連がまとめた識字率(2013年)があり、日本は99%で、孔子の中国は95.9%となって
 
います。
 
夏目漱石の草枕なんか読んでいますと、明治時代の熟語なんか皆目意味が判りません。
 
それに、パソコン等の使用で手で書くことが書くなった所為か、読めても字が書けません。
 
こんなことでは、いかんと反省だけはするのですが・・・
 
どうも歯切れの悪い結末になってしまいましたが、いま筆で書く練習の為短歌を造って
 
います。これからも頑張りますのでよろしくお願い致します。