四国遍路の作法として、「諸国巡礼のしおり」の中から紹介しております。
きょうは、般若心経を漢文として訳して見ました。
中国語の学習者としての試みですので、仏道としての意味が分る筈もなく、どんな文字や
語句が書いてあるのだろう・・・と思ったのです。
台湾の龍山寺に行った時、大乗妙法蓮華経の一頁を見ましたので訳してみました。
諸天若行坐。遊戲及神變。持是法華者。聞香悉能知。
と言ったような、文言を訳してみたのですが、五言絶句でいい文章でした。
仏教経典というのは、なかなか面白いものですね。
面白いというのは、内容がよく判って言っているのではなく、漢文として見た場合、
知らないながらも修学すれば、判る様な期待が持てるという程度のものです。
四国遍路では、巡礼で各お寺にお参りしたとき、この「般若心経」を唱えるそうです。
各お寺で、そうすると、いつの間にか「真言」や「般若心経」を覚えてしまうようです。
近頃は幼稚園でも、普通に言葉で般若心経を暗記して唱えられる子供さんも多くいますが、
一度覚えて、あとからどんな意味かを興味を持って探ることもあるでしょう。
童謡などもそんなことが多かったと思い起こしますが、語学ではとても有効だと思います。
きょうは、般若心経をピンインで書いて見ました。
現在、中国では簡体字を用いていますが、台湾の文字なら、日本の漢字とほぼ一緒ですから
判り易いと思います。
中国でインドからの仏教経典を漢訳した当時は、弘法大師空海さんも中国語で発音していた
のは、間違いないと思います。また、仏教が日本に伝播した当時、全てが中国語の発音で
いまの音読みであったろうと思いますが、現在の中国はもう発音も変わっていますし、
日本の発音も本来の日本語発音があり、融合などして時が経つにつれて、昔の発音が維持されているとは考えにくく、音の面では互に判らなくなったのでしょう。
例えば、ラテン語も様々に発展し、国によって言葉も○○語で違っているのと同じような
ことであろうかと思います。
そういう意味では、漢字の変化はそれほどでもなく紀元前の漢字でも読めますよね。
それは、それで貴重な事と思います。今日、難しいながらも仏典か読めるのも、漢字が
維持されているからです。
でも空海さんは、インド発祥の仏典の中国語翻訳は、その理論・解釈において満足しなかった
か確かめてみようと思ったのか、サンスクリット語を修めました。そうして、中国語仏典の
妥当性も検証しました。個人的には、そのようによく吟味された上で日本に運んできたと
思っています。弘法大師空海さんは、漢字といえども仏教思想は中国では中間点なので
誤訳や解釈の相違などがある場合をも考えていたのでしょう。
そんな事情ですが、真言密教は、弘法大師空海さんが最終的に日本で確立し発展させた哲学
ではないでしょうか。私にとって程遠い話ですが、仏典の文字はそこまで吟味されてきた
文章であるという謂わば、高尚で成熟した貴重なものであると考えます。
まあ、今日は般若心経を唱えて寝ることに致します。
《2014.2.10 周南市 東郭》


般若心経
banruoxinjing
はんにゃしんぎょう
佛説摩訶般若波羅蜜多心経
foshuomohebanruoboluomiduoxinjing
ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
guanzizaipusa hangshenbanruoboluomiduoshi
観自在菩薩が般若波羅蜜多を深く行した時、
照見五蘊皆空 度一切苦厄
zhaojianwuyunjiekong duyiqiekue
五蘊(色・受・想・行・識)皆な空と照見し、一切の苦厄を度す。
舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
shelizi sebuyikong kongbuyise sejishikong sejishise
舍利子よ!(釈迦の弟子)、色は空と異ならず、空は色と異ならず、
色は即ち空である、空は即ち色である。
受想行識 亦復如是
shouxianghangshi yifurushi
受想行識もまたかくのごとし。
舍利子 是諸法空相 不生不烕 不垢不浄
shelizi shizhufakongxiang bushengbumie bugoubujing
舍利子よ!諸法は是れ空相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、
不增不減 是故空中
buzengbujian shigukongzhong
増さず減らず、故に是れ空のなか、
無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意
wusewushou wuyanerbisheshenyi
色無く受想行識無く、眼耳鼻舌身意無く、
無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
wuseshengxiangweichufa wuyanjienaizhiwuyishijie
色声香味触無く、眼界無く乃至意識界無し。
無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽
wuwuming yiwuwumingjin naizhiwulaosi yiwulaosijin
無明無く、亦 無明尽きることなし。 乃至老死無く、また老死尽きる
こと無し。
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
wukujimiedao wuzhiyiwude yiwusuodegu
苦・集・滅・道無く、智無くまた得も無し、得る所無きをもって故に。
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故
putisaduo yibanruoboluomiduogu xinwuguaai wuguaaigu
菩提薩埵(菩薩)、般若波羅蜜多に依るが故に。心罣礙(けいげ)無く
罣礙無きが故に。罣礙=わだかまり
無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
wuyoukongbu yuanliyiqiediandaomengxiang jiujingniepan
恐怖有ること無く、一切の顛倒 夢想を遠離して涅槃を究竟す。
※涅槃=平安、究竟=物事の最後に行きつくところ
三世諸佛 依般若波羅蜜多故
sanshizhufo yibanruoboluomiduogu
三世諸仏 般若波羅蜜多に依る故に、
得阿耨多羅三藐三菩提故 知般若波羅蜜多
deanouduoluosanmiaosanputigu zhibanruoboluomiduo
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たり故に、
般若波羅蜜多を知るべし。
是大神呪 是大明呪 是無上呪
shidashenzhou shidamingzhou shiwushangzhou
是れ大神呪(しんしゅ)なり、是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、
是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
shiwudengdengzhou nengchuyiqieku zhenshibuxu
是れ無等等呪なり、よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざる
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
gushuobanruoboluomiduozhou jishuozhouyue
故に般若波羅蜜の呪を説く、即ち呪を説いて曰く、
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
jiedijiedi boluojiedi boluosengjiedi
“ギャーティギャティハラギャーティハラソウギャティ”
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、
菩提薩婆訶 般若心経
putisapohe banruoxinjing
”菩提薩婆訶(ボーヂソワカ)” 般若心経。
菩提よ、ささげ物を受け取り給え!