山口県光市束荷(つかり)にある伊藤公資料館を尋ねました。
前回の続きですが、今回は伊藤公の生家(復元)を紹介いたします。
《2014.1.3 周南市 東郭》

伊藤公の生家がある束荷(つかり)は、周防国熊毛郡束荷村字野尻でしたが、昭和18年に
岩田・三輪・塩田・束荷の4つの村が合併して熊毛郡大和村になりました。
のち、昭和46年に熊毛郡大和町となり、更に平成16年に光市と合併して、光市束荷と
なりました。

伊藤公資料館の向こう側(南西)に、復元された生家があります。

記念植樹

門を入ると、生家が復元されています。

この生家は、平成3年に復元されました。

伊藤公生家の案内板


嘉永3年(1850年)、台風により倒壊したと解説されています。
伊藤公は、天保12年(1841年)9月2日、十蔵・琴子の子「利助」として生まれ、
6歳まで、この家で暮らしたそうですが、翌年倒壊し、大正8年(1919年)復元
されたとあります。伊藤侯爵遺跡保存会の御苦労は、大変なものがあったでしょう。
父、十蔵は弘化3年(1846年)に生活の拠点を萩に移してしまうので、78年まえの
家屋の復元は、なにも残っていない状態から言い伝えだけで復元したと思われるから
です。

右側に入り口があります。右側には、竈が見えます。

親子3人・父十蔵・母琴子・利助の像があり、生活の様子を再現しています。


この生家での公の生活は6歳まででした、1846年の父十蔵が萩に移ったため、母琴子と共に
里の秋山長左衛門方に移って生活していましたが、1849年、母子と共に萩に移住しました。
このような一家団欒は、一人っ子の利助には楽しい想い出であったろうと思います。

竈(かまど)は、「くど」と呼ばれます。
ここで煮炊きをしますが、江戸時代は薪を燃やすことからはじめます。
当然、薪の準備も必要ですので、現在の電気やガスの生活とは随分違います。

右に、水甕がおいてありました。この水は、井戸から汲み上げて来たものです。
子供の役目は、水汲みが重要な仕事でした。おそらく利助も普通にやっていたと思います。
右の方に蓑がかけてあります。

ダイガラです。餅や米などを撞くとき使います。足で踏んで、石臼のところの杵を
上げて、中味を撞きます。

左の六畳の間です。十蔵・琴子の写真です。

中の間は、4畳で伊藤博文公の志士の姿や元勲の姿などあります。

伊藤公産湯の井戸

井戸


生家の前は広場になっていて休めるようになっています。

生家の裏から伊藤公資料館を見ました。

帰る時、生家での三人の姿がありました。
利助にとっては、これから時代の流れと自分の運命は知る由もなかったのですが、
萩に移ってからは、松下村塾で学び、高杉晋作・久坂玄瑞・桂小五郎・井上聞多など
多くの同志と共に、明治維新を成し遂げます。維新達成で多くの志士が命を落とすなか、
運よく生き残って、政治家として日本の基礎を築きますね。残念ながら68歳で凶弾に
倒れますが、それまで公は、夭逝した高杉晋作や坂本竜馬、西郷隆盛等々の最後の理想
を一身に背負って実現させます。
言わせてもらえば、明治維新は公が魂を入れたと言ってもいいでしょう。
大隈重信が公を評して”常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった”と
述べていますが、賄賂は受け取らなかったといわれるように、当時よくあったことでも
自分の信念を貫き通した人のようです。現在の政治家さんも原点となる姿勢ではと、
思います。