

飯田忠彦先生(1799年~1860年)は幕末の国学者・歴史家である。
大日本野史(1851年嘉永4年)を完成させた。
水戸光圀の歴史書「大日本史」は南北朝統一1392年をもって締めくくられているが、
飯田忠彦はその続編を野史として完成させた。
本紀21巻、列伝270巻で38年あまりの歳月をかけたという。
その史料1000点あまりの収集には、仕えた有栖川宮の力もあって編纂に役立ったという。
大日本史にも匹敵すると久保白船句碑の説明に書いてあるようにその価値は高い。
先生はほとんど独力で編纂されたという情熱は、尊敬されるべきである。
不幸にも桜田門外の変のとき、あらぬ疑いをかけられ抗議の自刃をしたという。
飯田忠彦は、徳山藩士 生田十郎兼門の二男で二番町に生家跡がある。
婿養子など姓の変わりはあるが、徳山藩校時代は毛利広鎮に近侍していた。

之 旌 先 飯 四 贈
碑 功 生 田 位 從
徳山動物園の入り口正面にある旌功の碑は、篆書体で刻石してあるので、よく読めなかったが
上記のようになりました。
大正2年9月とあるので、飯田先生の功績をたたえて建立されたものと思います。
従四位(じゅしい)とは、官位8番目であり贈られたものにせよ、大名クラスであります。
このなかに、「憤怒のあまり割腹」という文字があります。
2012.2.18 東郭