資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。

 

 東京都港区芝大門一丁目にある、芝大神宮(しばだいじんぐう)です。

 



 芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神である「天照大御神(内宮)」、「豊受大神(外宮)」の二柱を主祭神としてお祀りされています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建されたお社です。

 





 古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され、鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい、大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を戴きました。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができます。

 





 絵馬は、文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件「め組の喧嘩(めぐみの けんか)」を描いたものと、例大祭「だらだら祭り」の生姜と千木筥を描いた厄除け絵馬の2題です。

 

 め組の喧嘩は、講談や芝居の題材にされ、そのあらすじは以下の通り。

 

 芝神明宮とめ組の喧嘩(江戸さんぽHPより)

 

 江戸庶民に愛された芝神明宮(飯倉神明)。境内には芝居小屋、矢場などが並び普段から盛り場であり、喧嘩もたびたび発生したようです。中でも「め組の喧嘩」は歌舞伎の演目としても有名です。

 



 文化2年(1805年)2月、芝神明宮境内で行われていた勧進相撲に、町火消としてこのあたりを管轄するめ組の辰五郎が仲間を引き連れてやってきました。

 

 木戸銭(観戦料)を払わずに入ろうとすると、木戸番にとめられ、たまたまそこを通りかかった九竜山という力士が木戸番に加勢します。

 この場は引き下がった両方でしたが、境内の芝居小屋でたまたま鉢合わせしてしまいます。再び喧嘩に発展し、ついに九竜山が辰五郎を投げ飛ばしてしまいます。

 



 それを発端に大騒動。九竜山の弟子たちが駆け付け、辰五郎のなかまを切りつける事態にまで発展します。形勢が悪くなった辰五郎たちは屋根伝いに逃げます。仲間の一人が火の見やぐらに登り半鐘を鳴らしたため、さらに現場は大混乱に。多くの火消しが現場に駆け付け、大乱闘。同心が駆け付け多数が捕縛されることとなりました。

 

 事件は通常の町奉行の裁きによるものではなく、勧進相撲を取り仕切る寺社奉行、さらには勘定奉行の3奉行が集まり、三手捌きという異例の事態に発展しました。結果、喧嘩の原因を作った火消側に重い沙汰が下されました。また、喧嘩の最中になった半鐘も島流しにされるという話も残りますが、真偽は定かでありません。

 

喧嘩の発端と江戸の火消し

 喧嘩の発端となったのは、火消しの辰五郎が木戸銭を払わずに勧進相撲を観ようとしたことでした。当時の江戸の消火方法は現在のような放水ではなく、燃えている建物の周辺の建物を壊し、延焼を防ぐ破壊消火という方法でした。おそらくこうした背景から、その技術力を買われて、町火消は鳶が担っていました。

 

 また、当時勧進相撲などの興行を行う場合は、その土地の鳶の頭に挨拶に行き、防火面などの面倒を見てもらうというしきたりがありました。その代わりとして、鳶たちは木戸御免で興行を見ることができたのです。め組の喧嘩ではその土地の鳶以外のものが辰五郎の仲間内にいたため、喧嘩に発展したとされています。

 

 江戸の消防系統は非常に複雑で、幕府管轄で主に江戸城付近の決められた場所を担当する定火消、幕府から命じられた大名が中心となり、武家地を中心とした決められた場所を担当する大名火消、そして、おもに町人地の消火を担当する町火消がありました。

 複数の系統に分かれていたことや、エリアごとに分かれていることによって、消火活動の優先順位など消火活動をめぐり他の組織と争うことが多々あったようです。 火消が火災現場に出るときは命がけでした。当然仲間内の連帯感は強いものになっていきます。こうしたことが喧嘩を激しくさせ、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉につながっていきました。