資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。

 

 静岡県浜松市浜北区根堅にある、岩水寺(がんすいじ)です。



 岩水寺は高野山真言宗別格本山の寺院です。山号は龍宮山、神亀2年(西暦725年)、行基菩薩が薬師如来の尊像を刻み、開創されました。

 

 岩水寺には、征夷大将軍の坂上田村麻呂が、薬師如来の功徳により美しい女性に変身された天竜川の龍神様と恋に落ちたという恋の伝説があり、将軍は人々の幸せを願い、お母様(龍神様)の魂が刻まれた厄除子安地蔵を岩水寺に安置したと伝えられています。

 古くから「家を守るは岩水寺」と言われておりますが、これは、本尊の厄除子安地蔵が子供を産んだ女性が神仏になったという非常に珍しい仏様であるためです。

 安産、子授け、宮参り(龍之宮参り)、家内安全、厄除けに功徳があるといわれています。

 

 また「春は岩水寺から」ともいわれ、シダレザクラ、ソメイヨシノなど約600本の桜があり、遠州きっての桜の名所として知られています。

 


 絵馬は、ご本尊の子安地蔵尊を描いた開運招福・満願成就の絵馬です。

 


(天竜川龍神伝説〜坂上田村麻呂将軍と赤蛇伝説〜岩水寺のHPより)

 桓武天皇の延暦年間(西暦七八二年〜八〇五年)、勅命により東国へ向かっておられた坂上田村麻呂将軍は、曳馬(浜松市)北方守護である玄武神の霊威を意味する船岡山(現在の浜松市東区半田山〜浜北区内野台)に到着されました。それより先の天竜川はその当時、岩田の海と呼ばれる程広く、非常に荒れており、地域の人々を困らせていました。

 そこで田村将軍は船岡山から鬼門(北東)にある岩水寺に参拝し、一夜の宿を取られました。

 そして総本尊様であるお薬師様に、何卒苦しむ衆生を、民を救いたまえと御祈願されました。


 すると岩水寺のすぐ東側、岩田の海、袖ヶ浦と呼ばれる地域(現在の天竜区二俣町鹿島)、にて荒れ狂う海から、美しい玉袖と名乗る姫がお薬師様の神々しい光と共に現れました。

 将軍様の奥方に迎えられた玉袖。やがて玉袖は身重となりました。いよいよ出産という時、四方四間の産屋を建ててもらい「わらわが産み終わって出てくるまで、決してこの中を覗かれないで下さい。」と、将軍に堅く言いおいて産屋へ入られました。


 それから七日経ちましたが一向に出る気配がありません。外は大嵐となり、心配になった将軍がふと産屋の節穴より覗いてみると、中には二十尋(三十メートル)はあろうかという大蛇が七巻半たむろして赤子を舐めていました。

 驚いた将軍は産屋を蹴破り、中に入り込もうとするや、目の前に赤子を抱いた美女、玉袖姫が現れました。

「自分はこの海に住む蛇であります。お薬師様のお力で将軍様にお仕えする事が出来ましたが、本来の姿を見られた限りお別れしなくてはなりません。ただこの子はあなた様のお子であります。どうか立派な武将にお育て下さいませ。」と2つの宝珠を渡して岩水寺の赤池(閼伽池)へ消えて行かれました。

 それから八年の年月が経ち、将軍は再び勅を奉じ一子赤蛇丸(後の俊光)を同行しこの地に来ました。そして荒れ狂う岩田の海に水干の玉を投げ入れました。すると海はたちまち汐が引き広々とした陸地になりました。

 水が干上がった時赤蛇は岩水寺の赤池(閼伽池)に隠れ、そこから奥の洞穴(鍾乳洞)に入り、その後鹿島の椎ケ渕へ入られました。現在の浜松市天竜区の椎ケ脇神社は将軍がこの赤蛇を祀ったものであります。またその玉が奉じられているのが浜松市東区の有玉神社です。また鍾乳洞は信州(長野県)の諏訪湖に繋がっていると云われております。


 その後成長された俊光公は母の姿を知らない事を悲しく思い、母を地蔵菩薩として崇めたい旨を天子に奏上されました。父が寵愛の頃の姿を現し給えと願い一七日間(一週間)参籠されました。満願の夜、雷鳴轟く豪雨の中に母が現れ「玉袖のかわく間もなしここに来てわれ母ならば子安をぞいのる」といいつつ姿を消されました。

 かくて俊光公は衆生済度法悦楽土を築く為に御母玉袖の姿をお比丘尼如来像とし、弘法大師空海上人一刀三礼の地蔵尊を銘「子安地蔵大菩薩」(国指定重要文化財)として岩水寺に安置されました。