資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。
山梨県甲府市古府中町にある、武田神社(たけだじんじゃ)です。
信玄が生まれたのは、甲斐国内の各勢力が争うなか、父・信虎によって国が統一された頃でした。
武田家の当主となった信玄は、駿河(今の静岡県東部)の今川義元、相模(神奈川県)の北条氏康と同盟関係を結んだり、破棄したりしながら、周辺諸国へと侵攻を進めていきます。その中でも特に有名な上杉謙信の5度にわたる「川中島の戦い」は、信濃北部をめぐる争いでした。結局、決着がつかないまま終わりました。
幾多の戦いを経て、信玄が50歳になるころには甲斐国のほか、北は信濃(長野県)の北部を除く地域、東は上野国(群馬県)西部、南は駿河国、遠江国の一部、三河国の一部、西は美濃国の一部、飛騨国の一部を手中に収めました。
しかし、彼の前に立ちふさがったのが織田信長。足利義昭を将軍に置き、すでに畿内を支配下に置いていた信長の台頭に、信玄は大きな危機感を抱いていたといわれています。1572年、信長と対立した足利義昭の求めに応じ、信玄は3万の兵を率いて京へ上ることを決めます。 西へ兵を進める途中、遠江の三方ヶ原で徳川家康と戦になります。信玄の半分以下の兵力で戦いを挑んだ家康は敗れ、浜松城へ逃れました。信玄はそのまま三河国へ入りますが、野田城を攻め落としたところで西進を止めてしまいます。
じつは信玄には若いころから肺の持病があり、この戦で病が悪化したといわれています。あるいは、野田城を攻めた際に受けた鉄砲傷が悪化したとの説もあります。いずれにせよ、信玄の身に何かが起こり、退却したことは確かでしょう。信玄の兵は京へ向かうことなく、甲斐へと帰っていきました。翌1573年、甲斐へと帰る途中、信濃国で信玄は亡くなりました。
・疾(はや)きこと風の如く
・徐(しず)かなること林の如く
・侵掠(しんりゃく)すること火の如く
・動かざること山の如し
「軍を動かすときは、 風のようにすばやく、 林のように悠々と落ち着き、
火のように勢いよく攻撃し、 山のように陣形を崩さない」
この「風林火山」の元ネタは、中国の孫子の兵法書をもとに作られたといわれています。