資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。

 

 山梨県甲府市古府中町にある、武田神社(たけだじんじゃ)です。





 甲斐の名将・武田信玄公を祀った神社です。甲斐武田氏三代である信虎公・信玄公・勝頼公が居館とした、躑躅ケ崎館(つつじがさきやかた)跡に創建され、1940年(昭和15年)には国の史跡に指定されています。

 


 絵馬には、武田信玄が風雲火山と書かれた軍配を持ち采配をふるっている様子が描かれています。

 


 武田信玄は、1521年に、甲斐国(現在の山梨県)の守護・武田信虎の嫡男として生まれました。「信玄」というのは出家してからの名前で、産まれた頃は「勝千代」、1536年に元服してからは「晴信」と名乗ります。

 

 信玄が生まれたのは、甲斐国内の各勢力が争うなか、父・信虎によって国が統一された頃でした。

 武田家の当主となった信玄は、駿河(今の静岡県東部)の今川義元、相模(神奈川県)の北条氏康と同盟関係を結んだり、破棄したりしながら、周辺諸国へと侵攻を進めていきます。その中でも特に有名な上杉謙信の5度にわたる「川中島の戦い」は、信濃北部をめぐる争いでした。結局、決着がつかないまま終わりました。

 

 幾多の戦いを経て、信玄が50歳になるころには甲斐国のほか、北は信濃(長野県)の北部を除く地域、東は上野国(群馬県)西部、南は駿河国、遠江国の一部、三河国の一部、西は美濃国の一部、飛騨国の一部を手中に収めました。

 しかし、彼の前に立ちふさがったのが織田信長。足利義昭を将軍に置き、すでに畿内を支配下に置いていた信長の台頭に、信玄は大きな危機感を抱いていたといわれています。1572年、信長と対立した足利義昭の求めに応じ、信玄は3万の兵を率いて京へ上ることを決めます。 西へ兵を進める途中、遠江の三方ヶ原で徳川家康と戦になります。信玄の半分以下の兵力で戦いを挑んだ家康は敗れ、浜松城へ逃れました。信玄はそのまま三河国へ入りますが、野田城を攻め落としたところで西進を止めてしまいます。

 じつは信玄には若いころから肺の持病があり、この戦で病が悪化したといわれています。あるいは、野田城を攻めた際に受けた鉄砲傷が悪化したとの説もあります。いずれにせよ、信玄の身に何かが起こり、退却したことは確かでしょう。信玄の兵は京へ向かうことなく、甲斐へと帰っていきました。翌1573年、甲斐へと帰る途中、信濃国で信玄は亡くなりました。


 「風林火山」の四文字は、信玄の軍旗に書かれていたとされる「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の文字の頭文字です。漢文で書かれているこのフレーズは以下のように読みます。

 ・疾(はや)きこと風の如く

 ・徐(しず)かなること林の如く

 ・侵掠(しんりゃく)すること火の如く

 ・動かざること山の如し

 

「軍を動かすときは、 風のようにすばやく、 林のように悠々と落ち着き、

 火のように勢いよく攻撃し、 山のように陣形を崩さない」

 この「風林火山」の元ネタは、中国の孫子の兵法書をもとに作られたといわれています。