資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町にある、落柿舎(らくししゃ)です。



落柿舎は、1685年(貞享2年)松尾芭蕉の弟子で、俳人・向井去来(むかいきょらい)が嵯峨に結んだ草庵(別荘)が起源とも言われています。
向井去来は、1651(慶安4)年に肥前国、現在の長崎県に生まれました。実家は医師で、去来は武芸を修めたり陰陽道の豊富な知識を持っていたりと、多才な人物でした。
1681(貞享元)年に松尾芭蕉と出会い、俳諧の道に進みます。芭蕉一門の代表的撰集となった「猿蓑」編纂を任されるなど、芭蕉の信頼厚い高弟となりました。芭蕉からは「関西の俳諧奉行」とも呼ばれ、非常に高い評価を得ていた俳人です。
「落柿舎」の名前は、庵の周囲にあった40本の柿が一晩ですべて落ちたエピソードから去来が名付けた愛称です。
落柿舎には、松尾芭蕉も三度訪れ、滞在中に「嵯峨日記(さがにっき)」を著した場所としても知られています。
落柿舎について、芭蕉は嵯峨日記につぎのように記しています。(現代訳一部)
『元禄四年辛未四月十八日、嵯峨に遊んで去来の落柿舎に到る。凡兆が一緒に来て暮まで滞在して京に帰る。私はなおしばらく滞在することになっていて、(向井去来が私のために)障子の破れを張り替えたり、庭の雑草をむしったりしておいてくれて、建物の片隅の一間を寝床と定めてあった。
部屋には、机一つ・硯・文庫・白氏文集・本朝一人一首・大鏡・源氏物語・土佐日記・松葉集(まつのはしゅう)を置いてある。ならびに中国風の蒔絵を描いた五重の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一本に盃を添えてある。夜寝る布団・副食物などは京から持ってきているので、貧しい感じではない。
わが身の貧しく賤しいことを忘れて、清らかで落ち着いた気持ちを楽しむ。』
絵馬にも描かれていますが、落柿舎の入口横の壁には蓑(みの)と笠(かさ)がかけてあります。
これは、庵主の在庵と不在を示す印で、蓑と笠がかけてあったら在庵、なければ外出中という意味です。落柿舎の象徴として常にかけられています。



