「南町」の名が彫られた石柱は、四日市市中部の旧東海道に複製の道標と並んで立っています。

江戸から東海道を上り43番目の四日市宿に入って三重川(三滝川)を渡り、さらに北町から高札場があった札の辻を過ぎ南町にかけて、たくさん旅籠と呼ばれた宿が並んでいました。ふたつの町は旅籠町(はたごまち)とも呼ばれ、最盛期は100件ほど建っていたという事です。
石柱の区域略図を見て、新しい事を知りました。現在、旧東海道の西に国道一号線をはさんで西新地という町名があるのですが、昔はその東側に東新地があり、両方とも南町でした。東海道から東西に開けた「新地」といったところでしょうか。
ところで、石柱の隣りにある道標には「すぐ京いせ道」「すぐ江戸道」と記されています。「すぐ」とは直ちにという意味ではなく「まっすぐ」の略です。1里(約4㎞)ほど南に東海道と伊勢街道の追分があり、その道案内の役割をしました。
しかし、この道標、もともとは、四日市宿の札の辻に立っていました。それほど大事なものが宿場の中心とも言える場所(札の辻)から数百メートル南に移動してしまっています。ですから、現在の道標の位置が札の辻という誤解が生じても不思議はありません。しかも、向きも違っていて、私ども東海道四日市宿資料館の語り部は、モヤモヤした気持ちで案内しています。現在、住宅地と国道で旧道が寸断されて東海道のルートが少しわかりにくくなりましたが、諏訪神社と道標を挟んだ道が、旧東海道です。 (Y)


