ふたつの町は、かつて東海道の西側、今の三滝川沿いに位置しました。


 「比丘尼町」は尼僧が居住した事から呼ばれたと伝わります。江戸時代には ※1 問屋場(といやば)の ※2 継立飛脚を請け負ったり、参勤交代の行列を手助けする人足が住んでいました。
 戦前の諏訪神社の例大祭である四日市祭では、この町に住む人々が参勤交代行列の姿を練りとして奉納しました。当時の写真を見ると、その賑わいに驚かされます。 先の戦禍で衣装や道具などは焼失しましたが、比丘尼町の練りは戦後に再興され、現在は四日市市の無形文化財となっています。5年前の東海道四日市宿資料館オープン時には今に伝わる大名行列の演技を披露していただき、「ヒーサーヒー」の掛け声とともに江戸時代の雰囲気を感じる事ができました。


 ここからは久六町の話題です。江戸時代にたびたび洪水に見舞われましたが、その土地を久六という人物が開拓した事が「久六町」の由来となっています。 


 ちょっと余談になりますが、この近く四日市宿の札の辻を中心に北・南・西町があるのなら、東町もあったのではと疑問に思っていました。いろいろ調べてみると江戸時代の東海道 ※3 分間延絵図 (ぶんけんのべえず)に札の辻から西に向かって「東町」が載っているではありませんか。
 ともあれ、かつては東町も存在し、江戸時代の宿場界隈に東西南北と付く町があったという事に、個人的にはスッキリしました。  (Y)


 ※1 問屋場・・・宿場で最も重要な施設で、今でいう運送業のような役割を担った
 ※2 継立飛脚・・・幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける業務
 ※3 分間延絵図 ・・・江戸幕府が東海道など五街道と主要な脇街道の実態を把握するために作成した絵地図