資料館の2階には壁面一杯、たくさんの絵馬が掛けられています。


 岐阜市長良にある、長良天神神社(ながらてんじんじんじゃ)です。

 

 長良の氏神さま、天神神社は、菅原道真公を祀り今から約800年前に京都北面の武士から美濃の国の目代に任じられた斎藤家によって建てられました。

 

 斎藤家は京都北野天満宮を奉信しており、美濃に赴任し金華山に城を築くと共に守護として祀りました。

 

 その後、寛正年間(1460~1466年)斎藤利藤が本殿を造営し、天正16年(1588年)池田輝政が社壇を構築寄進し現在も残されています。

 

 本殿を鎮祭する社壇は、南面の表幅が40尺(約12m)奥行50尺(約15m)高さ10尺(約3m)の基壇の前面には、横29尺(約8.7m)奥行10尺5寸(約3.15m)の持ち出し壇を同じ高さに、岩石を以て城郭石垣造りに築き上げられています。社伝によると天正年間に池田三左衛門輝政候が、築壇奉納したものと伝えられている。

 

 以下は、神社より紹介されている官公物語「神秘に満ちた御誕生」です。

 

 『天神神社の御祭神は、菅原道真公を祀り、御神号を天満大自在天神と称えるのであります。

 

 菅原家は第四十九代光仁天皇の御代に、土部宿祢古人卿が菅原の姓を賜わり、古人卿の孫に当る菅原是善卿が、道真公の御父であります。

 

 菅原家の元祖は、天穂日命にはじまり、その十四世の孫野見宿祢が第十一代垂仁天皇の御代に、土偶をもって殉死に替えることを建議した功によって、土師姓を賜わったと言う、由緒ある家柄であります。

 

 母君は薗文子姫と申し、道真公は第五十四代仁明天皇の承和十二年六月二十五日(丑の日)に生まれられ、幼名を梅園丸(御屋敷を紅梅園と呼ばれていた)と名付けられたのであります。

 

 道真公の御生誕について、母君が夢で、庭園の青梅が風に吹かれて、落ちるはずみに飛びはねて、懐に入ったので驚いて、

 

  人ならば浮名や立たん 小夜ふけて わが手枕に通う梅が香

 

と歌詠みして夢から醒められたがそれより懐妊されたと言われ、御生まれになってから二十五日間、口中に一物を含んで出されないので、法性房の僧正を招じて念誦されたところ、口中より一つの梅実を吐き出された。これを庭に播かれると、一本の白梅が生えました。

 

 この不思議が広まり、朝廷から勅使が差遺されて、御名を道実と賜わったのであります。

 

 この道実の御名は仁明天皇から賜わった文字で、古今実録、菅公御一代記には、この文字が使用されているが、菅公の御一代が真実一路であった御徳を称えて、何時の時代からか「道真」と記されるようになりました。

 

又口中から出た梅の実から成長した白梅が

 

  東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ

 

と言う菅公の歌に感じて、菅公を慰めまつったと言う、飛梅神話が伝わっているのも、菅公御出生の神秘を物語る一つであります。』