同級生との陵墓参拝旅行、鉄道好きの二人に合わせ京都鉄道博物館の見学をはさみ七条通を東へ歩き三十三間堂に向かいました。

正式には蓮華王院という名前のお寺の本堂です。今は東に数百メートルくらいの妙法院の飛地境内のあつかいとなっています。元々は、あの平清盛が後白河法皇のために建立したものです。そもそも後白河法皇の頃は三十三間堂、妙法院や北は京都女子大のあるあたりの新日吉神宮(いまひえじんぐう)、南は在来線や新幹線の線路を越えた先にある新熊野神社(いまくまのじんじゃ)あたりまでが法王の御座所である法住寺殿の敷地でした。今の妙法院のあたりが法王の御座所であったらしいです。法王は、比叡山の日吉大社、熊野三山を勧請して新日吉神宮と新熊野神社を建立させたわけです。今は法住寺というお寺が三十三間堂の道を挟んで東側にあり更にその東隣に後白河天皇法住寺陵があります。

御陵の隣の墓地には江戸時代の親王のお墓が並びます。それは門跡寺院として親王が法住寺の住職をされていたためです。順番に参拝しました。合掌
参拝後、法住寺を拝観しました。法住寺は、元禄年間には大石内蔵助が参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木像も安置されています。大石内蔵助は東山を越えた山科に住んでいて東山を越えては花街に遊びにいっていたことが有名ですが、その道すがら法住寺を参拝したのでしょう。私たちは住職の奥さんに案内を頼んだのですがそれには訳があります。十五年前に私がひとりで拝観した時もその奥さんに案内してもらったのですが、その案内の中で後白河法皇が愛好した今様(いまよう)という当時の流行歌であるという唄を歌っていただいたのです。今回も歌ってほしいとお願いしたら快く引き受けていただき、三人いたからなのか三曲も披露していただきました。

法住寺を拝観した後、今夜の宿に向かいます。京都駅の八条通東口そばなので歩いて向かいました。鴨川を西に渡ってすぐ左に曲がって南下しました。ガードをくぐってすぐのところに「平清盛の終焉推定地(高倉天皇生誕地)」の石碑と案内板を発見しました。高倉天皇は平清盛の娘である平徳子を中宮としました。平徳子が生んだのが安徳天皇です。高倉天皇のお母様である平滋子は平清盛の妻・平時子の異母妹です。平清盛が亡くなったのは平盛国の屋敷であるとのことです。平滋子と平盛国がどう繋がっているのかわからないのですが、同じ平家なので何らかのつながりがあり同じ場所に住んでいたのでしょう。後白河法皇が住んでいた法住寺殿、その周りには権力を握りたい平家の人たちが群がっていたのだなあと思いを馳せました。二人の同級生も楽しんでいるようなので安心しました。宿は、以前私が六年間過ごした部屋の近くだったのでチェックインをすました後、久し振りになじみの焼き鳥屋さんで舌鼓を打ちました。(次号に続く)
愛知県本部事務局 松川秀康