京都岩倉を後にして京都市街を南下して通り抜け、国道一七一号線で高槻に向かいました。今回のメインの目的は高槻市にある今城塚古墳(いましろづか)を参拝することです。参拝といっても今城塚古墳は宮内庁が管理する陵墓ではありません。一キロほど西の茨木市に入ってすぐのところにある太田茶臼山古墳(おおたちゃうすやま)、これが宮内庁が管理する継体天皇の三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)です。

最近の学界では今城塚古墳の方が継体天皇陵であるというのが有力である、ということをかねがね耳にしてはいました。しかし、私は古代史に関しては邪馬台国ありきで古事記を否定してかかる学界の説というものを鵜呑みにせず疑ってかかるようにしているため今城塚古墳については優先度が低く調べることがありませんでした。
最近陵墓参拝の新しいネタも段々少なくなってきて、しかもコロナ禍で密を避けて車で行けるところということで今城塚古墳についてネット検索していきました。ウィキペディアと高槻市が作成したホームページを読んだり動画を視聴したりしました。その結果、これは学界の説が有力であるのは妥当でなないかを思いました。
宮内庁が天皇陵に治定した根拠は江戸時代に古事記の研究、古事記に記載されている天皇陵の現地調査、研究をした本居宣長の調査研究結果を元にしています。

本居宣長が太田茶臼山古墳を継体天皇陵と判断した理由は、

①墳丘長が大きい
 太田茶臼山古墳 二二六米
 今城塚古墳   一九〇米

②前方後円墳の形が美しい
 太田茶臼山古墳
  前方後円の形が美しい
  周りの濠が
  きれいに残っている
 今城塚古墳
  前方後円の形がいびつ
  周りの濠が
  前方部の前部分しかない

③古事記には島上郡にある
 と記載があり
 今城塚古墳は島上郡
 太田茶臼山古墳は島下郡
 であるが、古事記が編纂され
 た頃は郡界が違ったと推測

こうして太田茶臼山古墳が治定されたわけでありますが、今城塚古墳が宮内庁が陵墓参考地としても治定しなかったために発掘調査が可能となったわけであります。高槻市立埋蔵文化財調査センターが平成九年から発掘調査を開始して様々な発見がありました。その結果、

①今城塚古墳は仁徳天皇陵の様に
 周りの濠が二重になっていて
 濠も含めた全長は 三五〇米
 太田茶臼山古墳は
 周りの濠は一重で 二八六米位

②今城塚古墳は、西暦一五九六年
 伏見大地震で墳丘の半分が
 地すべり崩落を起こしていた

③文献調査の結果
 古事記の時代も郡界は現在同様
 太田茶臼山古墳は島下郡

④埴輪など出土物の年代測定で
 太田茶臼山古墳は 五世紀中頃
 今城塚古墳は   六世紀中頃
 古事記での崩御  六世紀中頃

この条件を突きつけられれば、今城塚古墳が真の継体天皇陵であると完全に気持ちが傾いてしまいました。こうなると早く今城塚古墳を見たいという気持ちが高まります。高槻市立いましろ大王の杜(だいおうのもり)公園を目指します。平成九年から十年間発掘調査をして、その後、公園として整備して平成二三年にオープンしてちょうど十年です。公園内の今城塚古代歴史館の駐車場に車を入れました。他に一台も車が停まっていません。館も営業している気配がありません。そう、その日は月曜日でした。明日はおそらく営業しているでしょうが念のために高槻市役所に電話をして確認しました。大丈夫でした。
そうなるとまずは十数年ぶりに三嶋藍野陵を参拝しておこうと思い車を走らせました。三嶋藍野陵の入り口に車を停めて参拝しました。二礼二拍手一礼
私と入れ替わりに若者が独りで参拝に来ていました。喜ばしいことだと感じました。

まだまだお昼を過ぎたばかりなので今城塚古墳に戻りました。
(次号に続く)
愛知県本部事務局 松川秀康