開聞岳

 

 2018年4月上旬。初めて知覧の地に立った。

 それまでの仕事を辞めたすぐの頃で、僕は九州半周の旅を計画した、是非とも訪ねてみたい土地が何箇所かあった。阿蘇、天草、水俣、甑島、そして知覧である。

 神戸からのフェリーを別府で降り、二輪車を阿蘇へ向けた。阿蘇を駆け、九州を横断し、天草の島々を巡り、少し戻りはしたが水俣へ。阿蘇山の雄大さ、天草では隠れキリシタン痕、水俣病の今昔を求めてである。甑島には薩摩川内からフェリーで渡った。天気が良ければ釣りをしたかったなあ、の思いを残し再び薩摩川内に。

 薩摩川内を南下し、薩摩半島の海岸線を走った。日置の馬踊りに際会し、やがて枕崎を過ぎたあたりで、それは姿を現した。薩摩富士とも称される開聞岳である。その瞬間だけ、八十年昔の開聞岳が浮かんだように思えた。海の風を身体に受けながら目指す。

 開聞岳の北方に、かつて陸軍の知覧飛行場があった。だから、飛行機が南へ向かうも、基地に帰還するも開聞岳は大きな目印ととして在った。

 太平洋戦争の末期の沖縄戦で、知覧の飛行場は完全に陸軍の特攻基地となっている。ちなみに海軍は鹿屋基地である。海軍の神風特攻隊は零戦、陸軍の振武隊は九七式戦闘機、一式戦闘機などを駆っての特攻出撃。開聞岳を背にして戦場に向かう。そして、あまりにも多くの若者が、その命を犠牲にした。

 知覧には特攻平和会館があり、特攻隊員の遺品や関する資料を展示して当時の記録を後世に伝えようとしている。

 入ってみた。さまざまの思いと複雑な感情が胸をよぎる。なぜ彼らは死ななければならなかったのか。頭を垂らしながらも、哀しく、悔しく、戦争が必ずや内包する理不尽さや不条理に静かに激しく怒りを覚えた。戦争は、ほかならぬ人間が起こすものだ。もっともっと我々は知らなければならない。検証も必要だろう。伝えなければならない。ささやかな声にも耳を傾けなければならない。戦争を避けるための叡智を出し合わなければならない。自分の生を他者に委ねてはならない。日常に生きることの価値を共有しなければならない。

 一枚の写真も撮ることなく会館を後にした。

 

 いつだったか、NHKの番組で特攻のことを若者に問う場面があった。そのインタビューに、「『国のために死ね』と言う国のためには死にたくはありません」と応えた若者。その言葉が今も脳裏に残っている。