2011年暮れも押し迫る12月末、僕は福島県のいわき市を訪ねている。
その年の3月11日の東日本大震災では、多くの被害を東北の太平洋沿岸にもたらした。このブログ「爺の繰り言13」(昨年6月)のなかで、何故いわき市を訪れたかの経緯とその時の見聞を記している。その冒頭部分をいく分省略しながら抜き書きすると、
「今では随分と昔になるが、私は父親の仕事の都合で、大阪の高校から、そのいわき市にある旧制中学の名残たっぷりの磐城高校へと二年生時に転校した。浪人時代を含め、途中父親の転勤で下宿生活となったが、三年間をいわき市で過ごした。楽しかった。それは一人暮らしとなった気軽さだけではなく、多分にいわき市の風土に負うところがあったものと思う。
五つの市と四町四村が合併してできたばかりで、小名浜や四倉の漁港、久ノ浜の延々たる松林と砂浜海岸に塩屋の灯台、夏井川の清流に阿武隈山地に連なる奥深い山々、平の城山や奥州三関の一つ勿来(なこそ)の関と白水の阿弥陀堂等々の旧跡、常磐炭田は閉山となったが映画(「フラガール」)のモデルともなったハワイアンセンターが登場したのもこの頃だ。実に変化に富んでいた。
青春に光と影がつきまとうものならば、その地で仰いだ太陽は眩く、その分陰翳は濃かった。
そのいわき市が、多くの級友が通ってきた福島県の浜通りが今回の大地震や大津波により、未曾有の被害を受けた。さらに原発の放射能汚染が追い打ちをかけている。
ずっと沙汰止みになってはいる級友の、ニキビ面が、白い歯が、時に口角沫を飛ばした声が、彼らの家々が、三年間が、浮かんでくる。
状況が許す時が来れば、いわきを訪れようと、今私は思っている。」
ことからの行動だった。
そして、2017年7月末にもう一度いわき市を訪れたが、その時は違う目的で。
震災の翌々年に、僕は「大空を紅に染め、」をまとめた。その後しばらくして、そこに登場する田子軍曹が現在はいわき市に含まれるが勿来の出身であることを知った。父の勤務地となったいわき市小名浜は勿来と目と鼻の先にある。昭和40年代の半ばのことだから、父の胸中には田子機爆砕の出来事は依然拭い去れないしこりとしてあっただろう。小名浜での勤務の二年間、父はどんな思いでいたのだろうか。当時の僕は当然ながら、今の僕もうかがい知ることはできない。だからこそ、その地を訪ねたかった。
勿来は「なこそ」。な+動詞+そ、は禁止の命令の意味になるとは大昔に古文の学習で習ったような。だから、勿来は「来るなかれ」「来るな」である。関所の名称にも似つかわしい。でも、その地に立ちたいだけの僕を拒みはしなかった。
少し北方の内郷白水の阿弥陀堂に立ち寄ってみた。岩手県平泉の中尊寺金色堂、大分県の豊後富貴寺大堂と並ぶ阿弥陀堂である。無駄を省いたかのようなその簡潔な佇まいの中に、僕は、田子軍曹と和佐野曹長そして父を感じた。
