7月10日、それまでの航空要員の教育と作戦行動を兼務していた各教導飛行師団は、教育部隊と作戦部隊に分離改編される。鉾田教導飛行師団は教育選任の教導飛行師団と第三教導飛行隊、作戦専任の第二十六飛行団司令部に分離され、神鷲隊は本土防空の任を負う第一航空軍隷下の第二十六飛行団に編入された。

 その様な複雑で混乱する背景が、ともすれば一度は出撃命令があったものの取り止めの事態を生じさせたように今は推測する。17日付で父が教育専任の教導飛行師団に配属されていることもそれを裏付けているのではないだろうか。その時、父の年齢は二十九歳であり、准尉の位にあった。おそらく秋田県の能代飛行場にも赴いたのだろう。

 記録に残る神鷲隊の特攻出撃は、その後の広島、長崎に原爆が投下される時期である。まさに「最終戦力」「崩れゆく大日本帝国を支えようとした最後の柱」のひとつだった。

 8月9日夕刻、第二百五十五神鷲隊の三機が九九双軽に五百㌔爆弾を装備し、岩手飛行場から陸中海岸沖に特攻出撃している。一機は機体不良で帰還。他の二機も敵部隊を発見できずに帰還しようとするが、その途中で墜落し三名が戦死されている。三名は、第五十七期士官候補生出身の二十二歳の中尉、第二期特別操縦見習士官出身の二十二歳の少尉、第一期特別幹部候補生出身の十九歳の伍長であった。当日、釜石市が艦砲射撃を受けており、また、艦載機による空襲で岩手飛行場施設が破壊された。その米艦隊を追ってのことである。

 終戦のわずか二日前の8月13日、第二百一神鷲隊の六(五?)機が二式双軽にやはり五百㌔の爆弾を装着し、那須野(黒磯)飛行場から犬吠埼沖に特攻出撃している。内二機が米艦隊に突入、三機が目標未確認で帰還、一機が帰還途中不時着とある。第五十七期士官候補生出身の中尉、第二期特別操縦見習士官出身の少尉、第一期特別幹部候補生出身の伍長の三名が戦死されている。先の第二百五十五神鷲隊と同じく第五十七期士官候補生、第二期特別操縦見習士官、第一期特別幹部候補生出身の二十歳前後の中尉、少尉、伍長の混成であり、この混成は特攻出撃のひとつの形なのだと思う。

 同13日、千葉県の東金飛行場からは第二百九十一神鷲隊が犬吠埼沖に特攻出撃している。戦死した少尉は第一期特別操縦見習士官出身であった。

 また同日、第三百九十八神鷲隊が神奈川県の相模飛行場から九五式練習機で下田沖に特攻出撃しており、曹長と伍長が戦死されている。

 以上の隊が出撃の記録に残っている。神鷲隊が東日本各地に配属され、しかもその搭乗員は実戦経験も浅い二十歳前後の若者だったことがわかる。。

 

 このように綴ってきて、改めて複雑な思いを抱く。そして、それは感謝の念と、哀しさと、静かな怒りに結びつく。