(裏書きに、左から藤田准尉、石津機長、東中尉、奥田機長、小野寺機長、井出単機とある)
父は、神鷲特攻第二百六十七隊六名の中の一人であった。その六名が真っ白なマフラーを首に纏い、花束を持ち、機の前で破顔一笑して並んでいる写真がある。写真の上書きには、「昭和二十年七月一日 出陣式を終えて 於黒沢尻飛行場 神鷲特攻第二百六十七隊員一同」と記されている。黒沢尻とは、岩手県の現北上市にあった地名だ。出陣式まで行われたのに、実際は出撃しなかった。寸前の中止である。なぜなのか。
神鷲隊の規模がどのくらいで、二百六十七という数字も何を意味しているのか全く分からない。他の記録によると、八月九日に第二百五十五神鷲隊が岩手(黒沢尻か?)から釜石沖に出撃し、十三日には第二百一神鷲隊(黒磯より銚子沖に)、第二百九十一神鷲隊(東金より銚子沖に)、第三百九十八神鷲隊(相模より下田沖に)の三隊がそれぞれ出撃したとある。
歳が離れた長兄と話すのだが、そのあたりの経緯が杳として不明である。兄の話によると、特攻隊の編成にあたっては本人の意向を問うために用紙が渡されたという。以前観たテレビ
のドキュメンタリー番組で、海軍だったと思うが特攻隊の志願者を募る場面があり、同じように用紙を渡されていた。兵士は、意志表明を複数回答から選んだ。それと重なる。当然、父は「熱望」と回答したらしい。その時代に私が生きていたら、おそらく私も同じように答えると思う。尋ねられた者一同が一様の回答をしたので、上官はほっと胸を撫で下ろしたという。胸を撫で下ろす?自らが軍人の道を選び、最終戦力の部隊の一員となり、教え子の幾人かが特攻として出撃したなか、父には「熱望」以外の回答はなかったはずだ。その意志を問うた時期が何月であったのかは分からないが、前年の昭和十九年五月には長兄が誕生している。たとえ幼子を抱えていたとしても、父には選択の余地はなかったものと思うし、それ以前に、逡巡することすらなかったように思われる。母はどこまで知っていたのか。
予定通りに七月一日に出撃していれば、今の私は次兄とともにこの世に誕生していない。母も長兄の人生も、また違った形であったことだろう。紙一重の運命というのか。もちろんそれは、父の回想の随処にも見られたことであり、神鷲特別攻撃隊の三隊が八月十三日ではなく、十六日の出撃予定であったなら搭乗者の運命は変わっていただろうことにも繋がる。同様に、終戦の玉音放送が十五日ではなくもっと先であったなら、一度は中止となった父の隊も、再びの命を受け特攻に赴いた可能性だってある。父は端然として任務を遂行したことだろう。すると私たちは、やはり存在しない。
(長男 徹を抱いて)

