軍歴によると、父は昭和二十年一月二十五日に宇都宮・熊谷の飛行学校から、第三練習飛行隊に転属を命じられている。その頃を表す何枚かの大判の集合写真があって、一枚の添え書きに「教育するに航空機、燃料なく、遂に飛行場教育閉鎖。各々新部隊に配属」とある。その写真は、飛行学校が閉鎖された折のものであろう。もう一枚の集合写真には、「最終戦力として編成された部隊」とある。最終戦力とはどういうことなのか。父のメモ書きのその部隊と重なる項に、「敵艦体当たり特攻訓練及び夜間飛行訓練」という文字が、「九七式直協機、九七式練習機、高等練習機」とともにあるから、それらの飛行機を用いてのまさに捨て身の特攻訓練であったと思われる。陸軍初の特攻隊・万朶隊の編成にあたった鉾田教導飛行師団長の今西六郎師団長は、特攻隊を編成するにあたっても、「特攻隊の編成化は士気の保持が困難、低下するだろう。現地の決意であるべきで常時編成しておくようなものではない。慣熟や団結を考えてのことだろうが、慣熟が必要な機種(九九式双発軽爆撃機)でもないし、団結もなくなる。機材を用意しておくだけでよく、人の心の逡巡や天候不良など想定し生還可能性は残すべきだ」と言ったという(『戦史叢書』)が、この期に及んでは特攻隊の編成は常態化していたものと思われる。

 そしていよいよ終戦近くに、東日本を統括している第一航空軍(東京)の指揮下で特別攻撃隊・神鷲隊が編成される。それらの隊は主に太平洋側に配備されたという。