(当時新たに配属された九七式軽爆撃機)

 昭和十三年、太原飛行場に於いての出来事であります。

 当日は出動命令もなく、空中勤務者一同は指揮所附近で待機しており、それぞれ碁や将棋に打ちくつろいでおりました。そこへ情報が入ったのです。太原飛行場西方約二十キロ附近の部落に約二十名の匪賊が侵入跳梁しているとの情報でありました。笹尾中隊長は、直ちに首藤大尉に出動を命じました。

 その頃の中隊主力機種は、九三双軽、九三単軽であります。ただ一機だけ九七軽爆撃機が一中隊に配属されていました。

この機は、当時内地から、有名な藤田少佐が直接空輸されたものであります。笹尾中隊長は首藤大尉に対し、「九七軽による爆撃は初めてだ。性能試験も兼ねて急降下爆撃を実施するように。」と指示されました。搭載する爆弾は十五㌔弾であり、その日は八発だけ装備されたと記憶しております(全弾搭載する場合、十五キロ弾は二十八発です)。首藤大尉はやがて離陸し、目標地点に飛んで行きました。

 もう爆撃が開始されているだろうと思われる頃、又情報が入ったのです。匪賊跳梁の情報は友軍の誤りであるとのことです。全くの誤報であった訳であります。間もなく首藤大尉は爆撃を終了し、着陸致しました。笹尾中隊長に報告です。「九七軽による爆撃、命中率は極めて良好です。効果も甚大でありました」と申されました。そこで笹尾中隊長は、「先程の情報は誤報であった。匪賊は、どうも友軍らしいぞ。」と言われました。それを聞き首藤大尉は、「若し友軍であれば、相当の犠牲者が出た…」と悲痛がっておられました。匪賊と間違われたのは、実は飛行場大隊の隊員で、当日は炊事物資の調達に(車両二、人員十名)該部落まで出掛けていたのです。

 その当時は、宿舎は飛行場の北兵舎を使用していました。飛行場大隊も中隊も北兵舎に同居しておりました。この時の飛行場大隊長は、熊校におられました北野少佐でありました。不幸にして、戦死者四名、トラックは大破です。その夜、大隊では戦死者の通夜を行いました。私達も通夜に参列致しまして、焼香させていただきましたが、その後から誠に不穏な空気に包まれたのであります。戦死された方の同僚が酒に酔って、軍刀を振りかざして「殺してやる、殺してやる。」と大声で騒いでいるではありませんか。大隊の将校が直ちに中に入り兵隊を押さえてくれましたので、その場は事なきを得ました。

 当時の兵隊は召集兵が多く、特に飛行場大隊等は、召集兵が多数を占めておりました。従って、年齢も二十七歳から三十二歳位の方が多かったように思います。勿論戦死された方々も召集兵でありましたので、郷里には妻子もいた筈です。同僚の憤激ぶりは誠に凄まじいものがありました。妻子のことを思うと、不穏な空気になるその気持ちも判るような気が致しました。首藤大尉には誠にお気の毒であり、翌朝大尉のお顔をまともに見ることができませんでした。

 笹尾中隊長は勇断されたと思います。首藤大尉を、直ちに内地に帰還させました。これが武人の情けと申すものでしょう。大尉が現場に長く留まるとすれば、たとえ誤報に基づく爆撃であっても、本人としては良心的な呵責に苦悩することであり、又長く嫌な思いを続けなければなりません。私達部下としましても、大尉には本当にお気の毒でありまして、誠に忍びないことであります。そして、中隊と協力関係のある飛行場大隊隊員の動向及びその影響等など、笹尾中隊長は諸般の事情を考慮されて、直ちに内地更迭という最善の措置をとったものと存じます。

 首藤大尉は、かつて平壌時代の教官でありました。戦場にあっても、よく部下を愛されました。部下からの信望も篤く、たいへん慕われておりました。実に温厚にして高潔な人格者でもあられました。その大尉が太原を去られた後、私達は本当に心寂しく思ったものです。 

 やがて、日次の経過と共に、人々の脳裡からは嫌なことも薄れ、暗い事件もいつしか忘れ去られて行くのでした