この事件後、私は次の様なことを考えていました。
一、戦隊統合で出動した際の爆撃行動は、建制順序に従って実施されるべきである。当然、 第一中隊が爆撃を終了した後で第二中隊が爆撃に移行すべきである。(これは原則でありま す)若しこの原則が守られなかった場合、特に戦隊統合爆撃に於いては戦場上空で混乱を生ずるおそれ有り。
二、原則を犯したことは重大な規律違反である。不祥事件を惹起したその責任は誠に重大であるから、重く処断されてしかるべきである。
三、仮に将校であろうとも、この者は戦地勤務には不適格者である。戦線多忙の間、また何かの調子で違反を起こすやも知れず、一日も早く内地に帰還させるべきである。否ざれば、この将校と行動を共にする部下も不安を抱き、士気に影響を及ぼすことは明瞭である。
四、本人も現地に留まることは、良心的にも呵責に耐えないであろうし、一日も早く悪夢から目覚めさすためにも、内地に更迭させるべきである。これが、せめての武人の情けでもある。
当時私は、一曹長の身分ではありましたが、強くこの様に考えたものであります。
当日の爆撃に際し、桂編隊長も、まさか自分達の頭上に上空から爆弾が落下してくるとは夢にも思っていなかった筈です。これが現実に起きたわけです。この状況は私が一番よく確認しておりますので、桂曹長に対して強く進言致しました。二度と間違いを起こさせないためにも、是非中隊長及び戦隊長には真相だけは素直に申しあげてほしいと。私は本当に祈る気持ちで、この点を懇願した次第でありました。然し、桂曹長からは遂にその返事をいただくことはできませんでした。
果たして、中隊長、戦隊長は田子機爆砕の真相を知って頂いたか、否か。真実だけを知ってほしい。この事が不明のままであり、私の心に大きな凝りとなって残り、そして、大きな悩みになりました。
この事件を契機としまして、私は半ば自暴自棄。上司に対する信頼感も薄れ、また、考え方も変わり、自分自身が変貌していった姿をよく覚えております。中隊長も、当時私の変貌していく姿勢を確かに察知されていた筈です。
「飛行第九十戦隊史」には、田子機爆砕の件は二カ所にわたって記述がある。
ひとつは、『…八月二十六日戦隊長統合指揮のもとに、両中隊は全機桂林攻撃に向かったが、広西省一帯は密雲があり、前進できず目標を梧州東方五十キロの開建に変更し、三機編隊ごとの急降下爆撃を開始した。この攻撃で第一中隊通信兼射手和佐野福四郎曹長同乗、少飛四期田子知次軍曹操縦機は壮烈なる自爆を遂げた』とある。
もう一カ所は、山﨑中隊長が次のように記している。「私の誘導によって、編隊群を縦列に分け、まず私の編隊三機が急降下に移り、続いて溝口編隊、さらに桂編隊がつぎつぎに急降下爆撃に移った。戦果いかにと振り返った私の眼に、一瞬火ダルマが写った。桂編隊の三番機が火に包まれ粉々に爆砕して飛び散っている。
搭乗者、和佐野福四郎曹長と田子知次軍曹は、あのようすでは機上爆死は明瞭である。…戦陣のつねとはいえ、つくづく無常を感じさせられる不測な事故ではあった」と。

