※「爆撃写真」の掲載については若干の躊躇いがある。たとえ軍事施設や関連する施設を狙ったとしても実際はそれだけでは済まないはずだ。でも、いや、だからこそ載せていこうと思う。
【賓陽作戦】
天河飛行場から南寧飛行場に転進致しましたが、当初は天候が悪く飛行困難で、晴れ間をぬってよく出動したものです。
地上部隊は相当苦戦されている模様です。昼間、炊飯のために煙を出すと、そこに集中攻撃をうける始末で、全く身動きのできない状態にあった様子です。夜間ともなれば、日本の陸士を卒業した将校が、上手な日本語で反戦思想を放送してくるのだそうです。「兵隊さん、お互いに戦争は止めよう」とか、或いは逃亡を誘ったり… 最後には必ず「兵隊さん、腹が空いているだろう。ここにうどん粉を一袋置いていくので取りにきなさい」と言って、実際に置いてあったとか聞きました。
飛行隊の地上部隊協力に依り、地上部隊も活気を取り戻し、反転に及びました。極めて天候の悪い中でも、偵察将校の山本中尉同乗で何回も出動したことを思い出します。高度三百から四百メートル位の時もしばしばありました。
いよいよ明日は賓陽市街を大爆撃する日です。丁度前日に、先輩であります一期の横井曹長が中隊に配属され赴任されてこられました。そこで私は、横井氏といろいろな話し合いの中で、「明日は中隊主力(九機)を以て、賓陽市街の爆撃です。敵は飛行機めがけて物凄く高射機関砲を射ってきます。」と言い、そして、火をふいて曳光弾が無数に飛来してくることを予め知らせておきました。「しかし、敵さんの弾は決して命中しませんから心配は無用です。」と安心させました。
爆撃行のその日、九機編隊は銀翼を連ね、威風堂々と賓陽に向かいます。雲低く垂れて、編隊は雲下すれすれの五百メートルほどの高度での飛行であったと思います。敵は、市街上空進入前から機関砲の乱射です。光の尾を曳いた無数の弾が、斜前方から飛んでくるのです。第二編隊津野機の二番機であった私は、今か、今かと第一弾の投下を待ち電鍵を握っておりましたが、第一航過では爆弾は投下されず、更に反対方向再侵入して、第二航過で爆撃が終了したわけです。従って、一航過分だけ、余計に下から射たれた計算になります。爆撃終了後市街を離れたので後方を振り返りますと、水平射撃の様な状態で、後方から曳光弾が飛んできました。機翼をかすめて無数の火の玉が流星の如く飛んでくる光景は、目によく映るだけに決して気持ちのよいものではありませんでした。
全機無事で南寧飛行場に着陸致しました。その時、先輩の横井曹長は私に対し、「おい藤田、俺は二度と、あんなに機関砲の飛んでくる場所には行きたくない。」と言われておりました。横井先輩も初めての体験でありましたので、二度と行きたくないとおっしゃるその気持ちも本音であった様に考えます。私は戦地の勤務が長かった関係上、各地の爆撃行に参加致しましたが、山西省に居りました時(中村中隊長時代)には、洛陽、開州、鄭州、帰徳飛行場上空、西安、宝鶏等では、よく高射機関砲に射たれたものでした。
第一中隊長は、昭和十四年八月に中村政喜大尉から山崎武治大尉に引き継がれている。そして包頭方面作戦や田号作戦などが展開された。やがて、南支方面作戦のため戦隊から第一中隊が分遣されることになり、十二月十日に山崎隊長率いる九七軽十二機(三機は第二中隊から)が太原を出発し、南京、嘉義を経て広東の天河飛行場に転進している。梧州攻撃や翁英作戦に協力し、昭和十五年一月は南寧攻略のための「賓陽作戦(会戦)」に参加する。三十日の賓陽市街爆撃では、五十キロ爆弾九十発を落としている。なお、味方機の一機が主翼に一発被弾して大穴をあけたが、全機無事に帰還したという。





