【記録の中に出てこられる上官の方々】

 

 浜校甲種学生、学生長の平松健二大尉並びに佛印進駐作戦のため、広東(天河)に集結された首藤信義大尉、何れも平壌六連隊当時より第一中隊の将校でありまして、御指導を受け、かつ戦地に於きましては編隊長としてよく出動されたものです。又、北京航空兵団におられました笹尾宏参謀は、かつての第一中隊長であられました。

 昭和十二年七月十五日、動員下令と共に笹尾中隊長(当時大尉)、首藤中尉、平松中尉等と朝鮮平壌飛行場を出発致しまして、北支に転戦した次第であります。

 山瀬昌三大佐は、二代目の戦隊長でありました。山口大佐は三代目の戦隊長であります。山崎少佐は三代目の中隊長であられたわけですが、私の少飛時代の飛行班長でもあられました。

 右上官の方々の御指導を得まして、戦闘任務を遂行して参った次第でありますが、上官の御尊名を拝しまして、因縁ごとのように思え、なにか目に見えぬ緒で結ばれているようにさえ思います。徳川閣下は所沢飛行学校の校長であらせられたし、又、兵団長時代は第一線の私達の部隊を視察されたこともございました。

 

※「飛行第九十戦隊史」(以下、「戦隊史」)では、山瀬昌雄大佐が初代、山口槌夫大佐が2代戦隊長となっており、山崎武治少佐は2代第一中隊長であり、初代第一中隊長は中村正喜大尉となっている。

 

                    (編隊飛行)

 

【太原飛行場】

 

 太原飛行場は、基地飛行場として最も長く使用されました。北京との標高差は約千メートルあります。石家荘飛行場におりました時、三機編隊で太原飛行場を爆撃したことがありました。爆撃は夜間でありましたが、下から盛んに射たれました。爆撃高度は千五百メートルでしたので、実際には五百メートルの高度しかなかったわけです。これも苦い思い出の一つとして残っております。当時は、それほど標高差が有ることを全く知りませんでした。

 従来は滑走路もなく狭い飛行場でしたが、拡張され、立派な滑走路が完備されると名実共に優秀な飛行場となりました。私達はここを基地としまして、○○(判読不能)、運城、路安、新郷、彰徳、大同、厚和、包頭、済南、徐州等の各飛行場に転進し、要地攻撃、地上部隊の協力に尽力したものです。

 格納庫の裏側に、滔々として湧き出ずる泉。この水の美味なること、今も忘れることができません。又、冬も極端に寒くはないし、夏でも蝿や蚊はいないし、ここでの生活は全く快適でありました。本当に、太原飛行場は私達にとって忘れ得ぬ地名でもあります。

 

(「戦隊史」より転載)