【昭和五十二年】
昭和五十二年(1977年)は、父保にとって画期となる年であった。
昭和五十三年四月に発行された「飛行第九十戦隊会誌」第二号『鵬友』から抜粋する。
戦友動静
藤田 保氏からの来信
第一中隊の操縦士として昭和十二年七月平壌から出動以来活躍した少飛二期の藤田保氏から昨年十二月末、突然お手紙をいただいた。戦後航空自衛隊に入り、満十年勤務して退職後永大産業に入社し約十一年勤続し、五十一年退職して、青梅に新居を構えたと書いてあった。私(村井)は藤田君を随分探していたし、折にふれ天河飛行場で写した写真を見ては、写真に写っている当時の戦友で今生きている森平、目代、伊藤さん達と藤田君はどうしているだろうなあと話し合っていたことでした。お手紙を抜き書きしました。
「昭和十六年一月広東天河飛行場にてお別れ以来、皆様方の御消息如何にと案じ申しておりました。たまたま本年十一月二十三日靖国神社に於いて少飛戦没者慰霊祭が挙行されましたので出席致しましたところ、浜田三治君に偶然お会いし、皆様方の御健在なる旨を聞き、渡辺正義君の住所を知り、早速渡辺君に便りをしました。その返事のなかに山口部隊長殿が自分と同じ青梅に居住されているからと住所を知らせてきました。全く夢のように驚きました。懐かしさの余り早速山口さん宅を訪ねました。私の訪問を大変喜んでくださり、三時間余も戦地の思い出話に花を咲かせました。ここで山崎中隊長殿の住所を知ることができました。山崎さんから九十戦隊関係者名簿を送付していただき、九十戦隊戦友会も結成され、何回かの会合を重ねている次第を初めて承知したわけであります。早い機会に皆様方とお目にかかれる日を楽しみにしております。」
しかし、その会報の末尾近く、戦友死亡通知の項には「本誌戦友動静に書きました少飛二期操縦第一中隊、藤田保氏が去る三月十七日急性肝臓炎で急逝されました。四月十五日九段会館での東京有志会には出席できるものと楽しみにしていた矢先であり残念でなりません」とある。
昭和五十二年は何という年であったろうと思う。父の体調には、本人の自覚は薄いもののすでに異変が生じていた。そのなかで、見方によっては長らく背を向けてきたと思われる靖国参拝を行っており、また、それをきっかけにしてその後の怒涛の半年間があったようにしか思えない。そして、父の内なる戦争も終結したに違いない。加えて、そのひとつのきっかけがなかったなら、私もこの文章を記すこともなかったろうし、今よりも父に近づけはしなかっただろう。

