寄書と卒業記念撮影(卒業写真貼より)
【卒業】
卒業式。学校長の訓辞、生徒隊長、中隊長の訓辞等があり、私達はそれぞれ卒業証書及び操縦徽章を授与される。夢に描いていた操縦徽章を、各々が右胸に付けての記念写真撮影。助教殿に別れを告げて、懐かしの校門を後にする。
私は、同じ中隊に配属される天川氏と同行する。東京駅より下関行きの急行に乗る。別府出身の首藤氏とも下関まで一緒であった。下関に到着する前、首藤氏と手を握り、互いの前途を祝した。首藤氏の任地は公主嶺であった。
九一式戦闘機と九五式二型練習機(卒業写真貼より)
九二式偵察機と左が八八式二型偵察機、右が八八式一型偵察機(卒業写真貼より)
父、保は大正五(1916)年に生を受けている。本籍地は高知県にあったが、保の祖父そして父親が郷里の山林を売り払って、当時は日本の植民地となっていた現韓国の全羅南道庚津に一家で移住したと聞いている。四男三女の次男としてその地で生まれ(長女、長男は内地での出生)、半島とはいえ大陸の末端の自然あふれる風土のなかで少年期を過ごした。我々の世代もそうであるが、子供時分の「遊ぶ」という行為は「自然に抱かれる」ということと同義であったようだ。やがて保は、少年航空兵を志願するという形で、自らの子供(少年)時代と訣別する。十七歳の時である。私もその年頃に親元を離れているが、離れてはいても親の庇護下にはあった。褌ひとつを残して全ての私物を実家に送り返し、表現は適切ではないかもしれないが、命のやりとりをする世界に飛び込もうとするのとは大きな隔たりがある。ともあれ、二年近くの兵学校生活を終えると、すぐさま「飛行第六連隊」のある朝鮮は平壌に赴任する。その年、昭和十一(1936)年の二月には二・二六事件がおこっており、そして翌年七月には蘆溝橋事件に端を発した日中戦争が勃発する。本人の意志とは関わらず、まさに歴史の奔流に身を置くこととなる。



