第二次受験日も迫り、朝鮮を離れ内地に単身赴くことになった。村の有志の方々が宴を設けてくださった。勿論、叔父も出席していたが、他の親たちにも口説かれて、「今の若者は、それ位の気概がないと駄目かも知れない。」と言い、最後には祝ってくれた。私も、「まだ合格確定じゃないので、第二次試験の結果を見なければ分からない。或いは不合格になり、また家に戻るようになるかも知れないから。」と言って、叔父の気持ちを和らげたものであった。というのも、第二期操縦生徒百名募集に際し、第一次試験で二百名を採り、第二次では半分は落とされることになるから、殊に操縦課程の採用は厳格を極めたわけであり、結果がどうなるかは覚束ないものがあった。他に第二期の整備生徒が百五十名で、従って二百五十名の生徒が入校することになる。因みに、受験者総数は二千七百八十名であったと記憶している。

 朝鮮からはるばる内地(外地に住んでいる者は、日本本土を内地と呼んでいた)に、単身行くわけである。初めての旅路であり、心細い気持ちを抱きつつも無事に所沢の町に着き、指定された旅館に入った。

 二月一日が試験初日で、身体検査、航空適性検査、メンタルテストがあり、二日目は、口頭試問と面接であった。二百名を五日間位に分けて、受験させたように思う。だから、すでに受験の終わった者もいて出身地に帰る人もいた。なかには、また餞別を貰ってくるのだと言って、他を笑わせている者もいた。私達、高知県出身者四名(私の本籍は高知県にあった)は、五日の合格発表まで暇があるので東京見物に行こうということになり、初めて見る東京の名所、古蹟、物珍しい限りであった。

 そして、いよいよ合格発表日となった。