鞍馬駅 E17

 

〈鞍馬駅〉

 

 出町柳駅発鞍馬駅行きの最終電車は、当時22時2分だった。バイトがあった日はその電車に乗る。数少ない乗客のなかに、きまって座っている老婆がいた。巻いた薦(こも)のようなものを携えている。その風体(てい)から、おそらく一晩を鞍馬の山に籠るのだろうと思われた。人は、それぞれの人生をそれぞれの形で生きている。叡電は若い僕に教えてくれた。

 

〈鞍馬寺〉

 

 鞍馬というと、人は何を思い浮かべるだろう。王城鎮護の鞍馬寺に毘沙門天、鞍馬天狗と牛若丸、木の根道、火祭りに竹伐り会、与謝野晶子と鉄幹、鞍馬石に鞍馬炭、薬王坂や鞍馬温泉、鞍馬街道に京格子の民家の佇まい、牛つなぎの鉄輪、とち餅や木の芽煮も入れようか。道長や頼通も参詣し、信玄も秀吉も家康も戦勝祈願した鞍馬寺。源氏物語や枕草子での叙述や更級日記での鞍馬寺詣での場面なんかを思い出す方もいるだろう。

 

〈鞍馬街道と鞍馬本町〉

 

 そんな中、司馬遼太郎は「街道をゆく」の『洛北諸道』に、いきなり「スタスタ坊主(願人坊主)」なるものを登場させている。実に面白い。

「六、七人が、群れをなして歩いてゆく。それもスタスタ歩いてゆく。いでたちは異様であった。頭を向う鉢巻で締めあげ、上半身はハダカである。腰にシメナワをぶらさげている。右手に錫杖をつき、左手に扇子をひらいていた。ふつうはスタスタと歩いている。かとおもえば急に声をあげ、どっと駆けだす。」

 その派手なパフォーマンスで人々の注目をわざと浴びる彼らは、「寺の経済をうるおすためのお札の販売員であった」らしく、鞍馬寺から来たという。この稼業が江戸ではやったころの町奉行が大岡越前であり、その真偽を越前はわざわざ鞍馬寺に問い合わせている。それに対して寺側は、彼らは源義経が鞍馬山で修業をしたころの従者の末裔であり、義経が毘沙門天に武運を祈り、願をかけたことから願人というのだとスタスタ坊主を擁護している。江戸時代の面影を鞍馬の街道沿いの街並みに見た司馬遼太郎だからこそ、最初にスタスタ坊主を描いたのだろう。空間軸に時間軸を常に加えた司馬遼太郎の記述に、読者は否応なく彼の世界に取り込まれてしまう。

 この本が書かれたのは40数年前であるが、当時の名残は今も十分にある。黄昏時、雨に煙る日でもいい、車が途切れた鞍馬の本町を歩く。時がスリップする。スタスタ坊主を眼に描くこともできるし、遠く大見や尾越(おごせ)あるいは久多、花脊から牛の背に炭俵を乗せ、鞍馬の問屋にやってきた山樵〈やまがつ〉たちの姿を浮かばせることもできる。この地で彼らの炭は鞍馬炭となる。旅籠(はたご)や本陣なんかの建物を付け加えると、鞍馬寺の門前町どころか宿場町にもなるなあなんて他愛もない想像さえしてしまう。司馬遼太郎はスタスタ坊主の後には、山岳修験者の山伏も登場させていたなあ。そうこう思ううちに日が暮れる。

 

〈花脊別所〉

 

 山伏たちが向かうのは北に峠を越えた花脊の地の「大悲山峰定寺(ぶじょうじ)」である。鞍馬から少し足を延ばしてみよう。

 この道は、貴船口のアパートの住人やその友人らと一緒に、雪の降り積もる中を歩いた道。所属していた山岳会から借りた大テントを僕は背負っていた。相当重かったはずだが、その感触は思い出せない。楽しさが勝っていたからだろう。目指したのは花脊別所。リフトこそ稼働していなかったが、当時はまだスキー場があったのだ。比叡山にも人工スキー場が営業していた頃である。花脊峠を下りきった樹間にテントを張った。全員がスキー初心者だから、翌日は滑るというより終日雪と戯れたといってよい。その時の写真が数枚手元に残っている。モノクロの写真に写る笑顔を、彼らは今でも浮かべてくれているだろうか。

 

〈花脊山の家〉

 

 別所にある「花脊山の家」は京都市の施設である。計画段階で少しだけ関わりを持った。その時の花脊での集まりで、虻(あぶ)に噛まれた。噛まれたところが二週間近く腫れがひかず、熱を帯びていた。僕は、百足にも弱い体質のようだ。百足に噛まれると強烈な痛みも伴う。

 そんなことを思い出していると、ふと気が付いたことがあった。山の家ができて子どもたちが利用することになるが、彼らを乗せた大型バスは花脊峠を越してではなく、周山を経ての遠回りだったということを。大型バスが花脊峠を行きかうのは難儀だからだ。そのことと直接結びつけるつもりではないけれど、花脊峠に「花脊トンネル早期実現」という看板が掲げられている意味が理解できた。ただ、トンネルが開通することで大きく得られるものがあれば、失うものもあるかもしれない。その見極めだけは慎重であってほしいなと願う。

 

〈美山荘〉

 

 花脊は広い。もう広河原に出るのではないかと思うころに、大悲山峰定寺の標識を見つける。住所は花脊原地となっている。街道を右に折れ、緩やかな透明感ある細流に沿って山懐に入っていく。いつ来ても、この流れは清らかだ。やがて美山荘に着く。かつては峰定寺の宿坊的な存在だったのだけれど、今や高級料亭旅館の印象を僕は感じてしまう。敦賀街道沿いの石楠花山荘や比良山荘にも同じことを思ってしまう。でもそれは、店を存続させ経営を維持していくために選択した姿かもしれない。「街道をゆく」に美山荘に触れた個所がある。あけびの茶を飲んだあとに出された料理が紹介されている。

 「まずワラビの海苔巻、それをしょうゆで食うのだが、皿のすみにワサビが盛られている。ワサビもこの細流に自生している野生のものである。ヤマノイモの肉芽である零余子(むかご)、体の毒を消すという野萱草の花、マタタビノの煮たもの、山桃の実のアルコール漬、ウドの花のてんぷら、野萱草のツボミのてんぷら、フキの葉のてんぷら、アマゴのてんぷら、ヒノキゼンマイといったふうのもので、最後に栗めしが出た。といえば東北や信州の山菜料理のようだが、そういう野趣はなく、調理法や食器、盛りつけぐあいなどはまったく京風で、千家の会席といった風趣がある。」

 すごい! すごいというのは二つの意味があって、ひとつが司馬遼太郎のさすが作家と思わせる丁寧な観察力、そしてもうひとつが、これが「摘み草料理」なんだと合点する料理内容である。食べてみたい。最近よくテレビなどで見かける料理人の大原千鶴さんは、美山荘の娘さんだ。

 

〈大悲山峰定寺〉

 

 何の知識もなく初めて大悲山峰定寺を訪ねた時の印象は鮮明だ。仁王門をくぐり、天然石の階段を上ると舞台づくりの本堂がある。白枯れた壁板や手摺に、長い年月風雪に耐えた痕を見る。全く周囲の樹々に同化している感もある一方、密やかな威厳を裡に溜めているようでもあり、受容と拒絶の両極をその佇まいに思った。そうだろう、舞台づくりの建物としては日本最古で、雲ケ畑の志明院と同じく元来が山伏の行場であったのだから。すぐ近くの岩場に、修行の鎖場を見た記憶もある。寺の案内書は、「観光のための寺ではない」と明記している。潔い。だから何度も訪ねたくなる。でも、昨年からずっと門は閉じられたままである。だからまた行きたくなる。

 

 鞍馬駅から随分と離れてしまった。戻ろう。

 

 2021年10月22日夕方、鞍馬駅前にある「かどや」を訪ねた。昔からの知り合いだが、訪ねたのは久しぶりである。その日は、例年ならば火祭りが行われる。けれどもコロナ禍のなか昨年に続き神事だけの祭礼であるという。そして、コロナ禍に加えて貴船口での土砂災害である。叡電が観光客を鞍馬まで運べなかったことによる店の痛手は相当なものだったろう。叡電は再開された。来年こそはいつものように火祭りが行われる鞍馬であってほしいなと願う。火祭りの日、老若男女問わず鞍馬の人々は生き生きとしている。中学3年生の少年は、松明を担いで大人の仲間入りを果たす。一種の通過儀礼でもあるのだろう。眩しく見える。そして、故郷を持たない僕にとっては、生まれ育った地域の祭りに参加できる人々に羨望を抱く。僕はスタスタ坊主の類に入るのかもしれないなと、ふと思う。でも、流動と漂泊の人生もひとつの形だと自分を納得させる。

                                  

 

 叡電は、人を、人生を、喜びや悲しみ夢を、日々を、日常を、非日常を、時を、時代を、歴史を、そして僕を乗せてきた。そして、これからも。

 シリーズの冒頭、何か副題をつけようかなと思ったりしたが必要ないようだ。「叡電をゆく」を主題にしよう。