貴船口駅 E16

 

〈貴船口駅〉

 

 初めて京都にやってきて、一年間を岩倉花園町で過ごし、その後4年あまりを貴船口にある学生アパートで暮らした。部屋数は10あったかなあ、端の部屋だったから、片方の窓下を鞍馬川が流れており、走る叡電を対岸に見ることができた。昭和40年代後半(1970年代前半)は全てがモノトーンの世界。そのなかにあって、叡電の最終電車で一人貴船口を降り立った僕に、橋のたもとに立つ桜が街灯の照明を浴び、淡いピンクの花弁を見せてくれた。冬になると、当時は雪もよく降り、数十センチ積もることもしばしばで、その時は銀の異世界が出現する。夏は山間にあるからこそ狭い空の碧はいや増し、川面は樹々の緑を映す。そうか、僕はいろんな色を見たいがために、この貴船口での生活を選んだのだったかもしれない。

 

〈旧貴船口駅〉

 

 大家さん一家は街道に玄関口をもつ二階に住んでいらっしゃった。隣の母屋に小母さん や大おばあさんが。屋号は大勘と言い、駅に売店を開いておられた。その昔、街道沿いにあって行き交う旅人を相手にした茶店を彷彿とさせるその売店も今はない。駅舎も周辺も大きく変わった。消防署の分署が隣接し、赤い鳥居の位置も少し移動し、橋はすげ替えられ広くなった。僕が見た桜の木は伐られたようだ。

 

〈貴船口鳥居〉

 

 大勘の紹介で、ある夏を貴船の料理旅館「ひろや」でバイトをさせてもらったことがある。学生のバイトはもっぱら雑用が多いのだが、なんと経理の帳面をつける仕事だった。今思い出しても赤面するが、下手な字や数字が並んだ帳簿をお店の人はどう思われていたのだろうか、注意されることもなく雇い続けてくださった。きっと大勘の顔を立ててくれてのことだろう。時には、川床の料理をお昼の賄いに並べてくださることもあり、塩焼きされたアユの骨を上手く抜く術も教わった。冬ならばぼたん鍋が食べられたかな。

 バイトへの行き帰りは、貴船口から貴船神社そばにある店まで、貴船川沿いの街道を30分ほど歩く。歩いてしばらくすると、右手に大きな石がある。僕は勝手に髑髏(どくろ)石と呼んだのだけど。いつの間にか柵囲いされ、「蛍岩」の札が立っていた。山裾が削られて駐車場になった個所を随分と見かけるのはここ近年のことだ。その昔、貴船川沿いの道は両側に山が迫る渓谷を歩くようなものだったと思う。いろいろな歌に貴船川が詠まれている。

 

 流れての世をば頼まず貴船川玉ちる波に身をくだきつつ  (千載和歌集 正三位為実)  

 

 狂おしい恋の歌だ。

 

〈蛍岩〉

 

 失恋失意のうちにあった和泉式部が貴船神社に詣でた時に、川に飛ぶ蛍に自分の身から出た魂を重ねて読んだ歌もある。

 

 物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづるたまかとぞみる  (後拾遺和歌集)

 

 そんな貴船川と貴船神社は、謡曲「鉄輪(かなわ)」を生み、それは能の演目ともなっている。三つの脚に火を灯した鉄輪(五徳)を頭に載せた女が丑の刻参りをする…と書くともうお分かりだろう。藁人形を五寸釘で打つ行為はないが、能では女性の恋の恨みや嫉妬心の怖さを禍々(まがまが)しい鬼の姿で表現する。貴船神社の神職や陰陽師安倍晴明もそこに登場する。貴船川は情念の川であり、貴船神社は雨乞い雨止めだけでなく、縁結び、そして縁切りを願う神社でもあったのだ。

 その名も「貴船川」というタイトルの小説がある。水上勉の今はもう絶版になっている短編で、昔に読んだ記憶がある。文庫を探してみたが、どこにやってしまったのか見つからない。そうなると余計に読み返してみたくなり、古本をネットで取り寄せた。数十年ぶりに読んでみる。作者は、今はもう老舗となっている「ひろや」「ふじや」「喜楽」「べにや」以前の料理旅館として「笹家」を登場させている。大正から戦前の昭和にかけての「笹家」の女将の物語である。そこに描かれた女の、いや人間の業(ごう)を水上勉は貴船川に重ねたのかもしれない。小説で想像はしても、その頃の貴船を訪ねてみたいものだ。

 

〈鞍馬寺西門〉

 

 昔からの料理旅館に加えてカフェ風のお洒落な店も眼にするようになった。やがて右手に鞍馬寺西門が見えてくる。西門からは鞍馬山を越え、鞍馬寺へ。そして、叡電の鞍馬駅へと下りることができる。是非とも歩いてほしいルートだ。さらに進むとすぐに、貴船神社本宮への石段が左方にある。万物の命の源とされる水を祀る神社の縁起は古く、神武天皇の時代に遡るからほとんど神話の世界だ。1300年前の白鳳時代には社殿が作り替えられたとの記録もある。境内での水占みくじが若い観光客の人気を集める。貴船神社は、絵馬の発祥地でもあるらしい。

 

〈貴船神社への石段〉

 

 最奥部にある料亭「左源太」を過ぎたところが、貴船神社の「奥宮」だ。参道脇には杉の巨木が並ぶ。結界を張っているのだろうか、社殿が建つ敷地はべんがら色の柵で囲まれている。貴船神社の本殿も元はこの地にあったらしい。太古の気を感じる奥宮が僕は大好きで、朝な夕な時間を問わずバイクを走らせてしまうこと度々である。「その頃の貴船」を想わせる場所だからかもしれない。

 

 

(奥宮)

 

 奥宮横の石橋を渡りもう少し進んでみたい。ここからはハイカーの世界になる。もちろん貴船口から続くこの道は府道361号上黒田貴船線だから車も通行できるが、対向車とすれ違うのが難しくなるほどさらに道は狭くなる。落石にも注意が必要だ。若かった日の僕は歩いた。それは僕の北山デビューであり、それが契機となり以来山の魅力に取りつかれることになる。その時の僕が目指したのは芹生(せりょう)の里だった。奥貴船橋を過ぎた辺りの川原は、後に子どもたちを連れての飯盒炊爨の場ともなった。橋の手前の左の道は滝谷峠へと続いている。植林された杉を四方に見渡しながら登る。季節はいつだっただろうか、道は明るい。やがて落書きいっぱいの十文清水地蔵堂に着く。そこから芹生峠は近い。峠からは、落ち着いた雰囲気の杉木立の中を下りる。下りきったところに芹生が待っている。

 

〈十文清水地蔵堂〉

 

 芹生には「隠れ里」というイメージがある。それはどの方角から来ようとしても必ず峠を越えなければならない山峡の小さな里だからだろう。伊集院静は「志賀越えみち」の小説でヒロインを芹生に一時隠している。それ以前に、歌舞伎の「菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)」の「寺子屋の段」の舞台となっている。といっても実際にその歌舞伎を見たわけではないし、内容どうこうは差し控えたい。でも、菅原道真は平安時代の人物であり、寺子屋の出現は江戸時代だから、この物語は多分に創作されたものだろう。それが幾時代にもわたり多くの観客を魅了したからこそ、芹生には寺子屋跡が、道真の忠臣武部源蔵屋敷跡が後付け的に造られ残されたのだろう。史実であろうがなかろうが、全て芹生の里だからこそ生みだされたものだ。

 

〈寺子屋橋と勢龍(せりょう)天満宮〉

 

 もうひとつ芹生が舞台となったテレビドラマがある。1974年から1年間NHKで放映された「花車」だ。その番組で芹生を知り、訪れた人も多かったと聞く。芹生に花車、とても良く似合う。ドラマに登場した今は廃校となった分教場の建物は、相当に老朽化が進んでいるが現在も残っている。僕の思い違いならよいのだけど、無住とまではいかないものの芹生に住んでいるのはわずかな人数のような気がする。久しぶりに訪れた時に、静かさよりもなんだか日常が感じられない寂しさの方がまさった。だからこそ、また行ってみようと思う。

 

〈復旧された土砂崩れ現場〉

 

 2020年7月8日早朝それは突然起こった。貴船口駅近くの土砂崩れである。僕が住んでいたアパートのたった2、30メートル下流の山の斜面だ。大量の土砂や倒木が線路を塞ぎ電車の通行は不能となった。以降、叡電鞍馬線は市原~鞍馬間が不通となり、代替バスがその区間を走ることになる。人的被害がなかったのがせめてもの不幸中の幸いであった。大勘の大家さんは土砂崩れに最初は気が付かなかったらしい。多くの人が、さぞや怖かったでしょうと労わってくれたが、川の流れと雨音でわからなかったらしい。でも、それを聞くとかえって突如忍び寄る自然の災害に底知れぬ恐怖を覚える。

 補修工事の痕は、骨折した部位にあてがったギブスのように痛々しい。でも、我々が自然に対して謙虚であれとの警鐘をその傷痕が鳴らしているように思う。

 2021年9月18日、およそ1年2か月ぶりに電車の通行が可能となり、鞍馬までの全線再開となった。

 

 ちょうど対岸の道路わきに柿の木がある。ある日、住人の友人が遊びにやってきた。その柿の木のところで、「甘いし食べてみ」と僕は言った。彼は柿をもいで一口かじった。「ほんまや、うまいわ」と言った。内心「そんなはずはない」と思った僕は、慌てて同じように一口かじった。歯にしみる渋さだった。してやったつもりが、してやられた。彼は今も息災だろうか。