市原駅 E14
〈市原駅〉
市原の顔としてあったのが、駅から少し南に下がった街道沿いに入り口を持ち、広い敷地を持つ「川島織物」(現:川島織物セルコン)であり、江戸時代の天保年間に創業とあるから歴史は古い。市原には1964年に本社工場を建設している。室内装飾織物から、例えば歌舞伎座の緞帳や祇園祭長刀鉾の見送り幕などの美術工芸織物まで幅広く製造販売している。
〈川島織物セルコン〉
その市原が大きく変貌していく。その要因は、新たな「道」である。
京都市東北部クリーンセンターの竣工は平成13(2001)年であり、当初はダイオキシン排出による環境汚染などが懸念され建設反対の運動もあった。現在は市原の山の中に白い巨大な建造物としてあり、我々が出すごみを処理してくれている。その搬入路として市原と西賀茂を結ぶ道路が新設された。それ以前に、市原からしか車で入ることができなかった静原に、江文峠を越える大原からの車道が建設されている。さらに、貴船や鞍馬方面への狭い道を回避すべく市原から貴船口間にバイパストンネル道路が造られた。つまり、市原は交通の十字路としての役割を担うようになったわけである。当然、「道」の両側は新たな軒が並ぶようになっていく。
〈京都東北部クリーンセンター〉
〈二ノ瀬トンネル〉
かつては市原からの静原街道(静原川沿いにあり、ここもかつては心霊スポットに数えられていた)を通ってしか車で入ることができなかった静原。金久昌業著「北山の峠(上)」の中に以下の記述があった。
『静原は京都に都ができる以前からあった古い集落である。鞍馬や大原のようにこれといった史跡がないために脚光を浴びないが、名の如く山に囲まれた小盆地の中にあって蛍が飛ぶ静かな小邑である。ここにも天の岩戸の伝説があり、隣接の廃村譲葉(ゆずりは)には小野小町出生の伝承がある。』
この本が著されたのは1978年であるが、その後大原からの自動車道が通じたものの、静原中心部はそう大きく変容はしていないように見える。静原もまた大原のように、風土を守るために厳しい制限をつけているのだろうか。いつまでも訪ねれば心安らぐ優しい里であってほしい。
〈静原の里〉
ここで、静原と大原そして鞍馬との位置関係を見てみたい。
多くの人が、一番北に在るのは鞍馬で、緯度を下げた東に静原、そのまた緯度を下げた東に大原が、と感覚的に思っているのではないだろうか。僕もその一人だった。車載のナビや道路マップだけに頼るとそうなる。
広域の地図や大縮尺の地形図を眺める時、ちょっとだけ大空を舞う鳥になったと思う瞬間があり、その時自分にとっての新しい発見や驚きが生まれる。三つの集落がほぼ同じ緯度上に在るということ。そして、大原から江文峠を越え静原へ行く旧道と、静原から鞍馬へと越える薬王(やっこう)坂がほぼ水平に繋がるということ。
〈薬王坂 静原側から〉
自動車道以前の江文峠越えの旧道も、薬王坂もそれぞれ歩いたことはあった。ともに貫禄のあるしっかりとした古道の印象を持った。それはそうだろう、縦に走る鞍馬街道や大原・若狭街道を結ぶ言わば横の街道とも考えられる古道だったのだから。
平家物語に大原御幸がある。後白河法皇が、出家・隠棲していた建礼門院(平清盛の妻徳子)を大原の寂光院に訪ねるくだりであり、そこには鞍馬街道を通り大原に向かったとの記述がある。すると、薬王坂を越えて静原に入ったのかもしれないし、途中から静原川沿いに静原に入ったのかもしれないが、いずれにしても静原から江文峠を越えて大原に入ったのは間違いない。牛車(ぎっしゃ)が利用されたか、輿(こし)に担がれたかわからないが、そうなると単なる山道ではなかったはずだ。そしてその時代、鞍馬寺は天台宗に改宗していたから、薬王坂、江文峠を越え、そして大原から仰木(おうぎ)峠を経て天台宗総本山の比叡山延暦寺へと向かう僧侶も数多くいたに違いない。平安の時代から、多くの人が行きかい踏み固められた道であったのだと思う。
〈静原神社〉
静原から江文峠へ向かう道筋、里の外れに小学校があるが、その向かい側の林道は天ケ岳への登山道に続いている。途中には京都市の静原キャンプ場があった。そこを過ぎて天ヶ岳東俣川を進んだ辺りで、生涯忘れられない体験をしたことはどうしても触れずにはいられない。
静原川に沿った静原街道も心霊スポットであるのは前述したが、その類の多くは人の気持ちの有り様に左右されるものだと僕は思っている。だから、以下記すことは怪異体験でもなく心霊現象でもないはずだ。ただ、合理的な説明ができないから忘れられない。
〈天ヶ岳東俣川〉
岩倉駅の項で、10人前後の生徒たち各自のザックに石を詰め込ませ、岩倉村松から峠を越えて静原へと下ったことには触れた。夏の北アルプスでの合宿に備えての訓練だから、時期は多分7月初旬であったと思う。土曜日がまだ休みにはなっておらず、梅雨空の下での午後からの行動だった。夕方近く、厚い雲に覆われてはいるもののまだ雨は降らない。東俣川に入ってすぐの林道で、沢の向こうで若い男女の姿を見た。山登りの格好ではない軽装であり、何やら立ち動いている姿に「何をしているんだろう?」とは思ったが、それ以上は気にも留めなかった。先に進み、やがて沢を渡った樹間に幾つかのテントを張った。食事を済ませた頃には辺りはすっかり暗くなり、雨も降り始めた。それぞれのテントで子どもたちは就寝の準備に入る。雨脚が徐々に強くなってきた。その頃は、ドーム型ではなく家型のテントであり気密性にはやや欠ける。雨除けのフライで覆ってはいても、テントを樹間に張ったから排水用の側溝を周囲にめぐらすことはできなかった。そのうちどのテントも下から水が染みてきた。シュラフが濡れそぼる前にそこを離れることにした。もう少し先に進めば、林道からは判りにくいが屋根と床を残す廃屋があったことを事前の下見で知っていたからだ。そこへ行けば狭くても全員が横になれる。テントなどはうっちゃって置くことにして、シュラフなど必要最小限のものを携え移動することにした。夜の10時ぐらいだったと思う。
林道に出て歩き進むと、沢向こうの山の斜面近くに7,8人がただ直立している。一様に白いフードにレインコートのようなものを被っており、彼らの頭上には日の丸の旗のような明瞭ではないがそれに近いものが掲げられていた。周囲の暗闇のなかにあって、そこだけが切りとられたように、もやっとした淡い白い灯りに包まれてその情景はあった。雨音が耳を塞ぐ。「秘密の結社の集会?」一瞬、何か見てはいけないものを見たような気がした。その光景を眼にした子どもたちを無言で急がせ先に進んだ。廃屋に着いた。林道からだとここは見えない。雨の中での行動は疲れる。先ほどの光景をさほど話題にせず、いや、不気味すぎて話題にするのが憚(はばか)れたのかもしれない。彼らは自分のシュラフを少しでも早く温めようとして中に潜り込んだ。
何かの音で目が覚めた。雨音に交じって聞こえるそれは、お遍路さんがよく鳴らす鈴(りん)の音のようだった。同じく隣で眼を覚ましたらしい子どもに「聞こえるか?」と尋ねる。「聞こえる」と答える。時刻は夜中の二時ごろだったと思う。もう一人の顧問を起こし、外に出て大木の陰から林道を窺う。僕も彼も登山用の大型ナイフを手にしていた。何かの時は、子どもたちを守らねばならない。すると、林道を上流の方へと灯を入れた提灯がかなり間隔を空けながらも流れていく。雨は降り続いており、人影ははっきりとは判らない。それが途絶え、僕らは廃屋へと戻った。鈴の音も止んだが、まんじりともせずに夜が明けるのを待った。
すっかり夜が明けたのをみてテント場へと戻った。途中、昨夜の場所に立ち寄ってみたが、 人が集っていた痕跡を見つけることはできなかった。その後僕らは、予定通りに静原の集落を通り抜け、薬王坂から鞍馬に向かった。そして、鞍馬からは叡電で帰路についた。
後日、いろいろな所にこの件を問い合わせてみたが不明に終わった。少なくとも集団幻想ではなかったはずだ。







