〈一乗寺駅〉

 

 一乗寺と聞くと、年配者の多くは吉川英治の著にもある宮本武蔵と吉岡一門との「一乗寺下がり松の決闘」を思い浮かべるだろう。今の若者たちには、さしずめ「一乗寺ラーメン街道」だろうか。

 僕が昔若者だったころの一乗寺界隈は、どこか下町風情が残る、それこそ若者の町だった。学生相手の居酒屋や定食屋、パチンコ店などが並ぶ。餃子好きの学生を二分した王将と珉珉の店もあった。そして、何といってもその中心にあったのが「京一会館」という映画館。駅を降りて「曼殊院道」を西に歩いて直ぐのところにあって、いわゆる名画座とも二番館とも呼ぶのかな、洋画あり邦画あり。それに、しょっちゅうオールナイト上映ありで、紫煙ゆらめくなか「網走番外地」のシリーズや五味川純平「人間の条件」五部作一挙上映なんかをぶっ通しで観たものだ。館内はやかましさとは違う賑やかさと何となしの高揚感があり(華やかさはなし!)、高倉健や藤(富司)純子の登場には拍手と喝采が湧き起こる。場面によっては「ナンセンス!」の掛け声さえ。そこにはセクトを違えての解放区的なものがあったようにも思う。1988年に閉館となった京一会館だが、その跡は現在ドラッグストアとスポーツジムになっている。

 

〈恵文社〉

 

 そのほぼ向かい側に「恵文社」という少々特異な本屋がある。特異というのは、並べる本のチョイスに店主のこだわりがみられるらしい。その本屋さんを目指して一乗寺を訪れる観光客も数年来多いと聞く。

 「恵文社」を過ぎると南北に走る東大路通りにぶつかるが、そのあたり一帯の東大路通りがいわゆるラーメン街道となる。そう呼ばれるようになったのはいつ頃からだろうか。昔から「天々有」はあった。店名は忘れたが、豚の角煮を崩して食べたビニール張りのラーメン店があったり、少し離れて「昇龍」なんかもあったかなあ。それらが消え、やがて「珍遊」ができ、「高安」が店を通り沿いに移した頃から徐々に店の数が増えていったような。だからその呼称は、ここ5年そこらのものだと思う。自分好みのお店が見つけられるといいですね。ちなみに僕は、訳あって「びし屋」さんです。

 

〈ラーメン街道・びし屋〉

 

 一乗寺の駅を降りて、曼殊院通りを今度は東に進む。駅周辺もここ数年、若い人の熱意を感じる新しく特徴的なお店ができている。良いことだ。白川通りにつきあたる。その角には大型パチンコ店(僕はかなりの額を投資し続けたが、そのほとんどは回収不能になっている)。少し手前に、昔からのとんかつ店「とん吉」がある。

 

〈一乗寺下がり松〉

 

 白川通りを渡ると、前方の辻に姿を現すのが「一乗寺下がり松」。松は四代目らしい。辻と書いたが、平安時代からこの地は交通の要所であった。だからこそ、武蔵と吉岡一門決闘以前に、足利尊氏と戦った楠木正成の陣所もあったわけだ。松の前を『北へ折れると白鳥越え、東へ折れると今道越え、共に比叡山を経て近江に通じる街道』と下がり松を境内に持つ八大神社は説明している。「白鳥越え」とはどんなルートなのだろう。呼び名にも変遷はあるだろうし、今は廃れた古道も数多くあるに違いない。一乗寺そのものは現在ないが、「下がり松」の名称から推測できるように、やや北側の集会所児童館の敷地にその跡を示す碑が立っていた。

 

〈上、一乗寺跡の石碑  下、詩仙堂〉

 

 今道通り」の坂を上っていくと、「詩仙堂」、「八大神社」、さらに急坂をつめると「狸谷不動尊」に至る。この辺りに来ると、京都北辺の市街地の眺望が得られる。その昔、阪神にいた頃の小林繁投手が、この狸谷不動尊から瓜生山への坂道で冬場にトレーニングを積んだという話を思い出した。情念の汗を流したんだろうなあ。吉田監督時代に阪神が優勝した時の記念碑が立っている。狸谷不動尊の登り道をさらに詰めていくと、瓜生山の尾根道に出る。その山道を「曼殊院」へと下りることもできるが、それには地図と磁石などが必携だ。

 

〈圓光寺〉

 詩仙堂手前の路を北に折れると「圓光寺」、葉山の馬頭観音に途中で寄ったり、石屋さんの雨ざらしの観音像を見たりしながら「曼殊院」に行くことができる。車ではなく、歩くのがいい。途中、市街地の向こうに愛宕山の遠望も期待できる。

 

〈石造りの観音像〉

 

〈金福寺〉

 

 「下がり松」から少し南にある松尾芭蕉ゆかりの「金福寺」あたりも道は狭く、折れ曲がっている。だから、この辺り一帯は観光バスを連ねての団体客が来ることは昔も今もない。ひっそりと門を開いている金福寺を訪ねた後にぶらぶらしていて、偶然にも「本願寺北山別院」に当たった時はその視野の広がりに驚いたものだった。歩けば、きっと自分なりの何かしらの発見があると思う。

〈本願寺北山別院〉